【小説】Lonely葉奈with学13

「やっぱり、白川さんの仕事断るね。飲むって話もやめにするね」
「は? なんで?」
「こんなことになったの、あたしが白川さんの仕事受けて勝手に飲む約束したからだし」
「こんなことって。何でもなかったんだからいいじゃん、白川さん関係ないでしょ」
「いや。こんな気持ちで仕事できないし飲めない」
「こんな気持ちって。やるって言ったんでしょ? さすがに無責任だし白川さんに失礼じゃない?」
「重々承知の上のこと。あたしは気分次第でやると言ったりやっぱりやめたって言う女だから。やめるとメールだけして速攻でメールも電話も着拒にするから」
「いやそれは一回落ち着こう。もう一回話そう、俺何か悪いこと言ったかするかした? 白川さんのことはさっきも言ったけどほんとに、ほんとーーーに何も気にしてないんだって。それどころかね、これもうずっと言おう言おうと思ってたんだけどもう俺この生活限界で、葉奈との暮らしがってことじゃないよ? 全然そういう意味じゃないよ? 誤解しないでね、そういう意味じゃないからね? でもさすがにそろそろ外出たいなってずっと考えてて、この部屋はどう考えても二人の人間が一年もこもっていい構造じゃないんだよ。葉奈もそう思うでしょ? おかしくなってるって、俺も葉奈も。だから来週白川さんとこ行くってなって滅茶苦茶楽しみにしてたんだよね。半分は仕事だから仕方ないし付き合うかーみたいなスタンスでいたけどほんとは――」
「もうメールしちゃいました。着拒もしました」
 とまっすぐに学の目を見て葉奈は挑んだ。学もまっすぐにその目を見つめ返した。
 外に行きたければどうぞ、白川さんの所へもどうぞ一人でお行きなさい、私は寝ます、とふてくされ気味に言ってロフトに上がって寝る、というプラン甲と、その前に、もう一悶着するというプラン乙がこの時葉奈の頭の中にはあった。とてもではないがこのままロフトに上がってももやもやして眠れぬ気がしたので乙で行くべきか、・・・・・・いやさすがに一回は間を取るべきか・・・・・・そもそもこれ、一体何がどうなってこうなったんだっけ・・・・・・、と葉奈が考えていた時、学はとにかく、時間を空けるべきだと考えていた。葉奈はもう完全に目がキっとなってしまっている。怒りなのか何なのかに震えて学を見て、というかにらみつけて来ている。葉奈の二つの瞳は震えながらも逸らす、とか引く、とか退くつもりはないように見える。挑んでいる。おらおらおら、こっちは逸らさないぞ、いつまででもどこまででもやってやるぞ逸らせよそっちが逸らせよと言わんばかり。が、言ってみれば葉奈はまあ、時々はこうなる人だと学には分かっているので、そのこと自体は実は大した問題ではなかった。問題なのは、本当に問題なのは、おそらくは同じような目で学の方も葉奈をにらみ返しているという事実なのだ。この一連のやりとりの中で自分はかなり譲歩した筈だという自覚が学にはあった。というか、ここまでの流れをどのようになぞり返してみてもすぐには自分の側の落ち度が見当たらなぬのだ。意味もなく泣いていたことが悪かったというのだろうか? でもそういうことってあるではないか? 誰かそれなりに親しい大切な人が死んで涙が出て来たら、その誰かが死んだことが悲しくて泣いている、とか、悲願が叶った瞬間に涙が出て来たら、悲願が叶って嬉しくて泣いている、と言えるが、そうではなく、自分を取り巻くもろもろや自分の内側のもろもろ、色んなことが重なって、『特にこれ!』と指で指して示せる理由はないけども涙だけが迸っちゃう時というのがあるではないか? ではないかではないかと知らぬ他のことは知らぬ、他の人間や葉奈にそういうことがあるかないかは知らぬ、あるのだ、俺にはあってさっきのがそれだ。それが、心配されこそすれ、こんなに責められてっていうのはやさしさに欠け過ぎているのではないだろうか? そもそもイチャモンを付けてきたのはそっちなのに・・・・・・、と考えれば考えるほど引くなら引くで良いがその引くための建前であれポイントというようなものさえ思い浮かばず、もしこのまま話しを続けるのであれば学の側からは、「何なの? ちゃんと説明してくれる?」という台詞が真っ先に脳裏に浮かぶのだけれども、説明できることばかりが世の中でないことはつい今自分自身の涙について思ったことではないか。自分の涙には寛容で、葉奈の不機嫌に対しては説明を迫るのもどうかとは思うが、涙は誰かに迷惑をかけるものではないけれど、不機嫌はまわりが不愉快だ! やはり説明させたい。説明し切れぬとしても、せめて説明しようとはさせたい。できないならせめていたわって欲しい。そんな、にらみつけるのではなく、・・・・・・というような思いを学は自己の胸に読み取り、現実の目によってはそろそろ目が合い始めてから五秒程も経とうかというのに一向にその鋭さを緩めずおらおらおらとなっている葉奈の目を観察すれば、とてもいたわりを期待できるような様子ではなく、とにかくとにかく今は時間を空けなければならぬと思った。そうだもうあれを渡そう、プレゼント、――去年、葉奈の試験が終わった夏の夜に、試験の手応えや合否とは関係なしに、おつかれさまの意味で渡したかったのだが試験後の葉奈が常軌を逸してふてくされていたため逆なでするのを恐れて結局渡さずじまいになっていたあれ、――サングラスを今このタイミングで渡そう。と学は自分のリュックのチャックを開けようと手を伸ばした。だが、
「ていうか今問題なのって、白川さんがあたしをどう思っているのかではなくて、あたしが白川さんをどう思っているかだよね」
「・・・・・・。どうも思ってないくせに」
 と学は仕方なく言い、力なく笑うが、葉奈は笑わず続けた。
「そうかな? だってさ、あたしは白川さんとの会話の中で自分が声を潜めたということを学に変に誤解されたかも知れないと誤解したのよ。それって、あたし自身が全く白川さんに対して、その、そういう気持ちがなかったのだとしたら、起こらない誤解だったとは思わない?」
「ちょっと待って」
 となおも学は笑い、「今、自分で、自分のやましい気持ちを吐露してる状態なの? 追及されてもいないのに」
「追及されないから自発的に言ってるのよ。冗談じゃなく、『学に誤解されたかも』とあたしが誤解したのは、やっぱり多少なりとももともとあたしの中に白川さんに対する気持ちがあったからだ、という風に学が考えてもおかしくはないわよね? どうなの」
「白川さんは素敵な男性だもん。見た目も能力も心も悪くないし、 優しいし、むしろ白川さんと接するにあたって、全く男性としての魅力など感じません、なんていう女の人の方が珍しいのかもね」
「でしょ。だとしたら、心配しなきゃじゃん」
「何を?」
「だから、あたしが白川さんに取られちゃうかも知れないことをよ。声、潜めたっていう事実もあるわけだし」
「白川さんの側からも葉奈の側からも、多少そういう好意が存在はするとは思うけど、(だってお互いに魅力的な男と女なんだからね)でも現実にそういうことにはならないと思うよ。でももし葉奈が白川さんに惹かれてしまうことがあれば、それはもうしょうがないと思うよ。気持ちを止めることはできないからね」
「気持ちを止めることはできない、それはその通りね。そうであればなおさら、止めることができない段階にまで達してしまう前に、物理的に交流を断ちたい、もう会わせたくない、連絡も取らないで欲しい、と学の立場では考えるんじゃないの? 普通」
「それはどうかなぁ。それって、正々堂々戦ったら負けるから、相手を土俵に上がらせないみたいな話で、本当の勝ちじゃないよね。勝ち負けの話でもないけども」
「じゃあ正々堂々とか言って、あたしが白川さんと接するうちにどうしようもなく惹かれてしまって、つまり学が負けることになってしまったとしたら、どうするの。学はそれで諦めるの」 
「あはは」と学は笑ったが、この会話の間中ずっと学は笑っていたのである。とにかくいったん収めて隙を見て渡したかった。リュックの底からやっとこぶりの紙袋を取り出した。紙袋はもうこすれたり湿気にやられたりでぱっと見ゴミにしか見えないが中身のケースも本体もちゃんと新品の筈だ。これをかけて、顔を隠してさ、もう限界だよ、解禁して、また公園に行こうよ。なんて台詞はいらない、ただ渡せばいい。葉奈なら分かってくれる筈だ「理性的にであれ感情的にであれ葉奈がそう判断してそうしたいってなっちゃったらそれ以上どうしようもなくない? まあ人間なんだから、最終的には理性的に判断してくれたらいいなぁとは思うけど。俺がどうするもこうするもないよね。そんなことよりこ――」
「いやちょっと待てよさっきからずっとへらへら笑いやがって頭おかしくなったのか理性的に判断て何だよ頭で考えてたら誰がてめーなんかと一緒にいるんだよ」と髪の毛を両手に引き掴んで二、三ではなく六、七も揺すぶって「うぬぼれんのもいい加減にしろよ何様のつもりだよ打算したら頭でちょっとでも考えたらどんな女がてめえみたいな才能もない顔も大して良くもない筋肉もない何もないくずみたいなマッチ棒と一緒にいるよ理性的に判断してくれたらいいよっててめえ何を上から言ってくれてんだよお前にあたししかいないんだろあたしにお前が要るんじゃないだろうお前にあたしが要るんだろそれを何がふざけるなよ勘違いしてんじゃねえぞてめえやさしぶって調子のってんじゃねえよ殺すぞ、お前、・・・・・・殺すぞ」
 殺すとまで言われたのではさすがに学も笑っていられる気分でもなくなって、しかも今葉奈がまくしたてた内容のひとつびとつが学に取ってそこそこ痛い所を突いてもいたので悔しくて、悲しくて、つかまれた髪の毛もまあまあ痛く、そもそも髪の毛を掴むなんてひどいという情けなさがあり、しかもその髪の毛はつい先週にも葉奈が丁寧に切ってくれた髪の毛で今回の微調整も学は大変に気に入って何度もありがとうありがとうと言った髪の毛なのにそれを当の葉奈にこんな乱暴に扱われているということにはパニックにも近いような屈辱があって勢い、「殺してよ! じゃあもういいよ、殺して! そんな風に思ってるんだったら、殺してよ」
「ふざけるな」
 と葉奈が学の顔の左側面を拳で殴ると学は来た、ああ、暴力が来た、――久しい、――嗚呼――これは久しいと全身から滑液が顔面いっぱいにこみ上げて来て、充実して、目と鼻と口からどぼぼと溢れ出た。黄緑色だったり、透明だったり、青白かったりさらさらだったりぬとぬとと粘り気を帯びたりのが一部壁に散って寒色の花と花が黄ばんだ壁にびっちゃぁと咲き誇る、とまではいかない、付いた。「ふざけてなんかないよ殺して今すぐこのまま殴り殺して! もういいよ。こんなことして! こんなのもう本気じゃん、後から何言ったって取り返しつかないから。意味分かんないから。じゃもう殺してよ! 殺して白川さんのとこでもどこでも行けばいいじゃん淫乱!」
「貴様! ・・・・・・」
 と葉奈は二、三秒ほど言葉を探したが適当なものが見当たらず、無言で、玄関に向かい火の色のスニーカーに粛、々と足を入れる。
「え? どこ行くの! 夜だよ。自粛だよ。戻りなよ! ねえほんとに何で行くの? 行くなら殺してからにしてよ! ねえ! せめてマスクして行きなよ!」
 と学が座ったまま、不織布を箱ごと男投げ、それは男投げだった、投げつけると、
「うるさい」 
 葉奈は箱の重心を正確に捉え、渾身のボレーで蹴散らして蹴散らされた不織布が病気の、白くておおらかな花弁のように舞い、ひらひらと落ちていく、落ちていく様を皆まで見ることもなく、叩き付けるようにドアを閉めばん、葉奈は出て行ってしまった。だーん、でーん、だーん、乱暴な足取りで階段を下りていく足音が聞こえ、建て付けが大仰に揺れた。それくらい古びて簡単にきしんでしまう建物の内と外でそろそろ日付が変わろうとしていた。

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