【短編小説】れもニキ5/5
さて板橋に帰ってきた大八木抄造は59個のレモン(途中で三つ、こぼれ落ちたのだ。)を抱えて家の近所の、公園に来た。たまに鳳凰が来たり、ざりがに釣りのじいさんが来たりする、例の公園である。
サランラップでぐるぐる巻にしたレモンの塊を未だに抱いている。それは禍々しい球として今抄造の膝上にある。球を抱いて、ベンチに腰を下ろしている。一箇所破れ目ができてしまったので、そこを右手で大事にかばっている。
夕方の六時を過ぎた頃だったが真夏のこと、日はまだあかい。
虫が漂っている。
目の中の虫と、実在の虫と。
抄造自身も漂っている。
ゆさ、ゆさ、と、レモンを抱きしめて、意味もなく揺れている。きゅう、きゅう、と、サランラップが鳴る。……。
唖然、と言うべきか。
呆然、と言うべきか。
やり場が、なかった。
この大量のレモンを、いったいどうしたものか。
「あの、ドブ川に全部ぶちまけてしまおうか? ドブにレモンは浮かぶだろうか? 浮かべば、あの黒いような緑のようなドブの色に、黄色が映えて、・・・・・・」
ゆさ、ゆさ。
たゆたう。
違う。
鳳凰・・・・・・、もし鳳凰がやって来たら、鳳凰に向かって投げてみる?
鳳凰に命中したら、それはそれ。外したら、レモンが放物線を描いてぽちゃん、と池に落ちる。いずれにしても、何のことやら、分からない。
「こんなにたくさん、あるのに。もったいないな」
抄造は骨盤の上をずっと揺らしている。そうでもしていないと、時間の進行から落ちこぼれてしまうような気がするのだ。レモンの処置に窮しているというのは実は表面上のことで、本当には、その後のことを、恐れているのかもしれない。
ふと思いついて、破れ目から一つのレモンを右手に掴むと、皮の上から、歯を当てて、噛んでみた。酸っぱい。顔が歪む。もう一度噛んでから、一メートル程先の地面に放った。
「残り58個」
と呟いた。
この時、視界の右端に滑り込んでくるものがあった。
きこ、きこ。
例の老人の自転車、ではない。荷車を引いて、女が歩いてくるのである。きこ、きこ、と車輪がきしむ音がする。
女は、恐らくもとはカーキ色であったと思われるが、まるで絵の具でもぶちまけたように全体に様々な色彩の汚れのある、麻の上衣を身につけている。ワンピース、という感じではない。もっと機能的で、だぼっとした衣服。七月なのに長袖の、それを何というのか、抄造は咄嗟に思いつかない。
荷車には何やら花らしいものが、その茎と葉と共に満載されている。が、全体に枯れたような、腐ったようなものばかり。
美しい女でも、きれいな女でもなかった。若いが、小さな、虐げられたような女だった。
女は抄造の前、転がっているレモンの前まで来て止まり、しばらく辺りを見回すような仕草の後、腰をかがめた。右手、五指で、レモンを拾った。
歯形の付いたレモンを、検分するように、険しい目つきで睨み付けながら、様々に角度を変える。ほとんど沈みかかった太陽の方へレモンを向けて、透かし見るような真似もする。汁が、手首に少し伝う。それは痛いほど細い手首だったので、抄造も、汁になりそうだった。謝罪したいと思った。途方もなく、謝りたかった。 が、一方で、赦された、とも感じていた。この一日が、救われた。一年が、赦された。生まれたことと生きたこと。レモンを買ったこととそれを用いることを断念したこと。こんな所に四時間座って、ただ揺れ続けたこと。キツネのなりかけでなく、汚そうにではなく、全部の指で、しっかり拾ってくれたこと。
女は手首を伝う果汁を舌を長く伸ばしてなめ取ると、抄造をまともに見下ろして、
「これ、ぶち込んじゃっていい」
と、尋ねた。というよりは、ほとんど命令する抑揚で、「ちょうど黄色が足りないと思ってたのよ」
「よかったら、これも全部、」
立ち上がって、レモンの大塊、その不気味な、神々しい大玉、まるごと全部、処置を委ねた。
女は、臆せず、一切(いっさい)を受け取った。
分厚さに悪戦苦闘しながらも、破れ目の所からサランラップを引き裂いて、58個全部荷車にぶちまけた。二三、頷いてから、
「さんきゅぅね」
と、抄造の方を見ずに、低くかすれたような声で言った。そうしてまた、きこきこと荷車を引いて去って行った。なるほど、身体はこんなにも軽いものかと抄造は空を仰ぎ、ふっと、息をついた。いつになく高いところを、鳳凰が飛んでいく。
【お父さんの手術だけど、取り敢えずうまく行ったとのことです。また、夜にでも電話するね】
【分かりました。どうせまた色々な所、連絡したり、連絡待ったりで、今日は疲れてるんだろうから、俺はいいよ。最低限の所だけ連絡したら、寝て。試験は、自分なりには全力尽くせた。合格発表待ってても仕方ないから、明日から何か仕事も探します。帰れなくて悪かったね。寝て下さい。】
了
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