【小説】Lonely葉奈with学7

 コーポ。
 端くれとはいえ二十三区内で家賃が三万円台となれば、まあこんなものなのだろう。築四十年木造、七畳一間に四畳のロフトがついている。水道がある。ユニットバスがある。コンセントもいくつかある。電気が引かれている。屋根があり、薄いとは言え隣の部屋との間には壁も存在する。小高い丘の中腹あたりにコーポはあるが、丘に入っていく道は急な坂でセダンはもちろん軽自動車でも通れない、バイクならかろうじて通れはするがバイク同士であっても一部すれ違いができないような細道だから住民や住民に直截の用がある者以外はわざわざ誰も通らない。首都高や大通りからはじゅうぶんに離れた場所でつまり閑静な住宅街、と一応言えなくはない土地だが、葉奈と学のコーポが閑静だったかというとそうでもなく、では隣近所に異常者でもいて騒音をかき鳴らしていたのかというとそういうことでもないのだが、ひとえに壁の薄さのために、隣の部屋のくしゃみの音、いびきの音、トイレの音、コンセントを抜き差しするらしいガソ、ガココ、というような音、電気のスイッチをパチっと付けるか消すかする音、ドアの開閉音、それにこのような粗悪な壁であるにも拘わらず四、五年前から急にペット可になり、犬はもちろん猫の鳴き声まですぐ耳元で鳴いているのとほとんど区別がつかないくらいダイレクトに聞こえて来るのであり、とても閑静とは言えない状態だった。 それでももともとがそこまで静謐さに拘る二人でもなかったし、昼間はだいたい公園か図書館に行っていたし、生活音はお互い様であるし、ペット可に大家がしたのであればある程度は受忍するしかあるまいと思って大して問題にもしていなかったのだが、こうしてひがな一日引きこもって過ごしてみると、今まで何とも思っていなかったようなひとつひとつの音が少しずつ気になり出して、やがて気に障る状態になって来、まあまあそうは言ってもお互い様のこと、壁が薄いのが問題なのであって隣人に批難すべき行いがあるわけではない、トイレをするのも、スイッチをオンオフするのも、コンセントを抜き差しするのも、いびきをかくのも人間が暮らしていれば当たり前のこと、それを言い出せばこちらの会話なんかも隣人からしたら思っている以上に聞こえてしまっていて耳障りな思いをさせているかも知れないし、など理屈を駆使して何とか気を落ち着かせようとするのだがそういう時に耳に響く多分小型犬なのであろう犬のキャンハャンギャンと甲高くひび割れたような無駄吠えがすると一瞬針がヴン、と振れてつい「うるっ」、怒鳴ったりはさすがにしない、ぼそっと呟いてしまったりという機会は葉奈にも学にもあった。呟いてしまってから我に返り、小さく自分も犬の鳴き真似などして本気で苛ついているわけではないのだと互いに示しあい、冗談にして済ましてしまおうとはするような、そんな程度の些細な苛立ちだったのではある。ただ、「気分転換に散歩でも行こうか」とも「ちょっと散歩行ってくる」とも「外の空気吸ってくる」とも言えないのがなんとも辛かった。
 散歩を禁止したのはさすがに悪手だったのでは? という思いは例の話し合いから二、三日もした頃にはお互いの胸に兆し初めてはいたが、たった二日や三日で早速にもルールの軟化を提案するのは如何にもこらえ性がないようだし、簡単に変えてしまえるようなルールならルール自体の価値が下がってしまうし、というような思いから葉奈も学も自分からは言い出さないと決めていた。今だけなのだから、あと何週間かの辛抱なのだからと、どこか珍しいイベント的に捉えていたとも言えた。どれだけ外に出ずにいられるかを競うゲーム、挑戦のような側面もあったし、軟禁生活、閉じこもり生活というものが一体どんな気持ちになるものであるかここは一つ確かめてやろうじゃないかという実験ごっこのような側面もあった。
 しかし一ヶ月経ち二ヶ月経ち夏になれば終わるんではないかという微かな希望が希望に過ぎなかったことが確定し始め勝負の二週間でも三週間でも勝負が付かずどちらかというとそれは負けなのだろうがもともと勝利条件も敗北条件も明示はされず負けたと言いさえしなければ勝ちでもないが負けでもないから負けたとは言わず正念場に踏みこらえられず瀬戸際も土俵際も次々割って割りながら割ってないことにしてじりじり線を引き延ばしてという情勢になってくると正直挑戦だの実験だの言っている気分でもなくなって来てそういう折に要するに自粛の効果がイマイチだ都民の自粛が足りてないと遠回しにであれそういう報道や会見の動画を見ては「あたしらももっと自粛頑張らなくちゃだね」「うん」「呼吸自粛ね」「うん」と互いの口と鼻にガムテープを貼り合った。何十秒かで限界に達すると学は自分でガムテープを剥がして死ぬ死ぬと笑ったが、葉奈は血管の浮くほど真っ赤になりながらもガムテープを取ろうとはせず、自粛を破って勝手に呼吸する学のことを何やら必死に批難するような身振り手振りをしていたがやがて白目をむいて卒倒した。ぐにゃっと倒れかかってくる葉奈の身体を両手と胸と腹と要するに全身で受け止め、支え、学は初め笑っていたが見る限り口にも鼻にもぴったりガムテープが張られており、張られており、というかしっかり丁寧に、ぴったりに張ったのは学自身だから実はこっそり呼吸できているという目はゼロ――、「葉奈っ!」と叫び至急にテープを剥がして頬を叩きそれでも息をしないのでみようみまねの人工呼吸を二、三して生き返らせるというような局面もあった。つまりこの辺りでもまだまだそれなりに二人は楽しくやっていたのだと言えなくはない。しかし本当に卒倒するまで息を止めるというような芸当自体が相当追い込まれた精神状態でなければやってみようとも思わないものではある筈で、そういう意味ではこの時点で既に葉奈の精神はそこそこ追い詰められつつあったと言えるだろうか。幸いだったのはこうしてほぼ二十四時間一緒にいても、関係がぎくしゃくしたり、お互いに対していらいらして喧嘩になったりということは起きなかったことである。
 それでも退屈は退屈で、SNS撤退の顛末は既に述べたが代わりに葉奈は学にメールをするようになった。とにかくだるかったのだ。身体がだるくて、頭がだるくて、だるくて資格の勉強も、ぬいぐるみの作製も、服のデザインも作曲もする気が起きずかと言って眠いのではなくだるいだけなので眠るわけにも行かずだるくて退屈過ぎてだる過ぎて学にメールをすることになったのである。
 
2020年7月3日 件名・なし
「試験日が決まったみたい。9/27になりました。特に東京などは試験などできる状況じゃないと思うけど、withコロナだから仕方ないね。あたしはwithoutコロナしたいけど笑 社会としてはwithコロナwithout葉奈ということなのでしょうか? Lonely葉奈 inセミ。 あたしはinの使い方を間違った」
 
 ここに言う「試験日」とは本来毎年七月の第一日曜日に行われる司法書士試験の事で、2020年はコロナで無期限延期になっていた。葉奈はここ数年毎年このむずかしい試験に挑戦しておりこの年も受験する予定だったから、ちょくちょく法務省のページへ行って、延期後の日程の発表を待っていたという経緯があって、その日程が9/27に決まった、ということを言っているのである。で、セミがどうのと言うのはこの前日に、換気のために二、三十センチ開けていた玄関ドアからアブラゼミが入ってきてしまいジージー鳴きまくるのを何とか追い出そうとしたがうまくいかず結局台所の流し台の裏側に滑り込んでいき出て来なくなってしまった。そしてジージー言ったりバタバタと羽のもがく音が断続的に聞こえてくるのをどうしようもないのでそのまま放置した状態が丸一日以上続いていた。だから「inセミ。」の部分はセミが部屋の中にいる、というような意味の筈だが、inセミ、では「セミの中」の意になってしまいinの使い方がおかしい。「Lonely葉奈 inセミ。」までを一文と見るなら、「セミの中のひとりぼっちの葉奈」となってつまり葉奈はinの使い方を(わざと)間違っている。
 
2020年7月20日
件名・なし
本文
「鳥がぴよぴよ鳴きながら小麦だけをついばんでいる。そんな世界がしばらく残るなら、それ以外には何も要らない。
 小学生の頃に虫網で、あたしは雀を捕らえたことがある。興奮しきって家の母のもとへ見せに戻ると、母は『かわいそうだから逃がして上げな』と言いました。あたしが逃がした雀の子孫が巡りめぐって鳴きながら小麦だけをついばんでいる。そんな世界が残るのならば・・・・・・」
 
2020年9月20日
件名・なし
本文 
「端的に言うとうんざりです。爆撃とかと違ってじわ
じわ来る感じがまた嫌です。それでも戦争よりはマシなのでしょうね。戦争なんて起こるわけないんだけどね」
 
 世間ではただの風邪論もそろそろ芽を吹き成長し始めていた時期だが、葉奈自身はまだまだかなり深刻な目でコロナを見ていたことがうかがえる。
 
 2020年10月20日
件名・なし
「最近気付いたのですが、普通に18時間以上活動して疲れてぐっすり眠った翌日は爽快。眠くなる前に眠ると眠りが浅くかつ短く、次の日は常にぼんやりしている状態が続きます。
 活動時間→睡眠時間
 10→3
 12→3、5
 14→4
 16→5
 18→7
 20→7、5
 22→10
 24→11
 26→12、5
 
 この表で言うと活動時間=16以下のリズムはかなり悪いです。あたしは地球に向いてない、ちがう、地球があたしに向いてない」
 
 など、つまりはこれまでであればツイッター上で言っていたような事を学に送るという習慣が出来上がりつつあった。

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