RTで寄付を募るのは偽善なのかという話

話題になったお年玉の後の話だ。
ZOZOの前澤氏が拡張型心筋症の子供に移植が出来るように個人的な寄付とRT一回につき十円の寄付を行うというものだ。

まず言いたいのは僕はこの寄付をすること自体を偽善とは思わない。

デポジットの問題点を挙げる人もいるだろう。そもそも、デポジットは割り込むための料金ではない。症状の重い順番から移植がされるため、絶対数が増えれば中には順番が前後する場合もあることだ。その代わり、高額な医療費が自費で降りかかる。
でも、お金で命を買うことは普段僕らもしていることだ。
南米の人たちを貧困にしておきながら安いコーヒーを飲む。フェアトレードですべてのものを賄う人は今の日本にはいないだろう。

さらに言えば、その子だけを救うことの不平等さをいうことも間違いだと思う。
人間は神様じゃない。
前澤氏が言う通り目の前に倒れてる人がいたら助けることを偽善とは言えない。

ただ、RT一回につき十円という部分、これが偽善なのかどうかが僕には判断がつかない。

良い意味で捉えることもできる。
寄付は前澤氏個人のものになるが、善意は何十万もの人の分が集まる。
受け取る方としたら嬉しいことだろう。

悪意に満ちた捉え方もできる。
1つは文字通りRTを稼ぐことが出来る。これにより、個人の評価(ZOZOの評価)を上げることが出来る。寄付を利用した宣伝は
2つ目は批判の封殺だ。この前澤氏の行いを批判し、RTしないことは出来る。しかし、それは目の前にいる子供を見捨てることに他ならない。
前澤氏を批判しRTしなければ子供の寄付を断る「偽善者」に成り下がることになる。

これを回避するためには、自費で寄付を行なった後に前澤氏を批判するしかない。
しかし、そのために十円だけ寄付をするというのも如何なものかと思う。善意からではなく批判のための寄付になり、心に引っかかりを残す。

僕が前澤氏を応援しきれないのはこういう部分だ。
やらない善よりやる偽善というが、それは緊急的な話に限られる。偽善が蔓延するといつの間にか本当の善が失われると感覚的に理解している。

ただ、改めて前澤氏が寄付を行うこと自体を偽善とは思わない。
願うのは寄付額がRTの額を飛び抜けて誰もが驚愕するような値であって欲しい。余った分は他の子供に使われることだろうし。


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