不倫を鬼の目のように叩く人たちにキリスト教で生きてきた人間からの一言。少しばかり宗教じみた話。

芸能人が不倫をすると、鬼の首を取ったように叩く人が増える。
どこぞの殺人事件よりも、声を荒げる人が多くなる。
やはり、愛を裏切る行為は古今東西を問わずタブーとして受け止められるのだろうと思う。これが心からの声なのか、ただ憂さ晴らしなのかは知らないが加熱し過ぎていると思うし、違和感を感じる。

変な話だけれども、キリスト教の世界では婚姻外の性交渉は駄目だ。
結婚前にセックスをするなんて、とんでもない話になる。
不倫や浮気と同じように、結婚前にセックスをすること自体がタブーになる。眉を潜められる行為になるわけだけれども、その価値観に当てはまめると大体の人はとんでもないことをしているわけになる。
Twitterで裏垢を作って、ばんばんオフパコをしているなんてのはもう持ってのほかだ。

こんなことを書いている僕も、その教えを忠実に守っているわけではない。
だから、キリスト教の価値観に当てはめると不誠実な人間になるわけだけれども。

え〜、厳しい。ありえない、と思う人もいるだろうけど実際はもっと厳しい。
なにせ、イエス・キリストという人は「心の中で思うだけで同じだ」と言っている。想像さえ許してくれない。なんて、不寛容なんだ!と憤る人もいるかもしれない。でも、キリスト教が言いたいのはそう言うことじゃない。

僕たちと、あそこで不倫しているあの人も対して変わりはしないんだよ。ってことだ。誰もが清廉潔白に生きられるわけじゃない。誰もが世間から後ろ指刺されないような生き方を出来るわけじゃない。みんな等しく、駄目な人間なんだよって言っている。これがキリスト教だと、だからイエス様の救いが必要なんだ!って結論になるんだけれども、そこまで言うほど野暮ではない。
言いたいのは、みんな駄目なやつなんだって話だ。

僕たちの中で叩かれて埃が出ない人間っているんだろうか。
清廉潔白に生きて、後世から聖人のように褒め称えられるような人間っているんだろうか。いや、たまにはいるんだろうけどさ。

社会的な正義をかざして義憤に駆られるのは悪とは言わないよ。
僕だって、よくやる。
でもさ、鬼の首を取ったように懲罰を与えようとするのは、それはそれでまた別の正義に反しているような気がするんだよ。
もちろん、僕もどこかの正義に反しているし、寛容でないし、裁かれる人間なんだけれども。みんな、駄目な人間なんだって視点がないとさ、いつか上から目線で堂々と差別をするんじゃないかって不安だけはあるんだよ。

僕はそういう人間になりなくないけれども、そういう人間になっている時もあるし、でもそんなことないよ、お前も頑張っているよと言われたいし、誰かが苦しんでいる時にそういうことを言いたいよ。

「お前は苦しんでいるなんて言える立場じゃない」

言うのは簡単だし正しいし、反論なんかできないんだけどさ。
でもさ、それでも、どう足掻いても手を差し伸べるのが僕にとってキリスト教であって、誰かにとっても同じようなものがあればいいなと思うんだよ。
僕は

きっと、一定のルールをはみ出した人間を排斥するのは正しいんだと思うよ。
リスク管理からも正しいし、企業なんてそんなことをドヤ顔で語ったりするし、そもそも輪に入れたりなんかしないし。
でも、絶対にそこから外れる人もいるし、過ちを犯す人もいる。
僕は絶対に清廉潔白に生きて、褒め称えられるような生き方はできないから、こう思うのかもしれないけれどもさ。

でもさ、誰かを排斥のが正しい社会はやっぱり息苦しいんだよ。


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