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わからないけど、信じたいとは思う。

30歳になった頃、多分自分は、子どもは生まないだろうなと、なんとなく思った。


“なんとなく”といいつつ理由はいくつかあるけれども、知らない人に説明するのは難しいから、“なんとなく”という事にして、ここでは書かないでおく。

自分の子どもじゃなくたって、子どもの成長を見守ったり、手助けをすることには何かしらの形で関わりたいと思っている。
寄付先を探したり、地域で出来ることを探したり、子どものために活動する団体のことを調べてみたり。まだ余裕がないから、調べるばっかりで全然貢献は出来ていないけど。
私が子どもの頃に手を貸してくれた大人たちも、こんな風に模索してくれていたんだろうか。手の届かない遠いところにいて得体が知れないと思っていた大人たちも、本当は色んなことに悩みながら精一杯のことをしてくれていたのかもしれない。

ところで冒頭「多分自分は、子どもは生まないだろう」と書いたけれども、ここで「命」や「生命」について考えてみたい。
「命」と「生命」について広辞苑第七版には次のように書かれている。

[命]
①生命の生きていく原動力。生命力。
②寿命。
③一生。生涯。
④最も大切なもの。命ほどに大切に思うもの。真髄。

[生命]
①生物が生物として存在する本源。栄養摂取・物質代謝・感覚・運動・生長・増殖のような生活現象から抽出される一般概念。いのち。
②物事の存立にかかわるような大切な点・もの。また活動の原動力

私はそれほど頭がいい方じゃないから、広辞苑に書かれていたことをちゃんと理解できたかは怪しいけど
これを読んで、私がミケランジェロの彫刻やゴッホの絵に “そこに命がある” と感じたのは思い違いではなかったと思った。

生物学上の、じゃなくたって、いのちを残すことは出来るかもしれない。
そう思ったから、自分なりに考えて、いくつかの段階を経て、一年ほど前からデッサンやスケッチに積極的に取り組んだり、美術解剖学を勉強したりしている。
いのちを入れるのに相応しい器(作品)を作りたくて、生命についてもっと知りたくて、生物に関する本を読んだりも。


“いくつかの段階”の割と最近のひとつに、今年の夏、映画『THE FIRST SLAM DUNK』を見た経験も含まれる。
すごい作品だった。
映画を観ていた筈が、いつの間にか大きな生き物の細胞に取り込まれていた、みたいな感覚だった。
ボールの弾む音が自分の鼓動とシンクロしたような気がしたし、バスケットボールのコートは、自分にとっての真っ白い紙のような気もした。

生きているな、いのちがあるな、と思った。
自分もいのちを残したいと、改めて思った。


自分に何が残せるのか
何も残せないのか、まだ分からない。

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