「平等」という呪い〜後編〜


今回は後編です。

前回、平等と公平の言葉の定義に触れたあと、日本で平等という考え方が重要とされるのは、身近に人種問題のような顕著な不平等が少ないからではないか、という持論を展開したところで終えました。

今回はその続きから始めます。

まず、人種と聞いて思いつくものをいくつかあげてみます。

・アジア人
・白人
・黒人
・ヒスパニック
などなど。

きっと他にもたくさんあるんでしょうが、代表的な括りでいうと上記の感じではないでしょうか。

また、人種とは異なる「民族」という括り方もあります。これは人種以上に数が多いので、日本に限定してあげてみます。

・アイヌ
・琉球
・大和(日本で最も割合の高い民族がこれですね)
・ウィルタ
・ニヴフ
など。

最後の2つは樺太の少数民族とのことですが、あまりメジャーではない気がします。

日本にも色々な民族が住んでいるわけですが、定義上、その国に占める単一民族の割合が95%を超える場合、分類としてはその国を単一民族国家と呼ぶそうです。

その定義に則ると日本や韓国、他にもポルトガルなどは単一民族国家になります。

しかし現在は、色々な配慮も含め、単一民族国家という呼び方はしないこともあるようです。単一民族国家という呼称が少数民族の存在を無視することになってしまうためです。



話を戻しますと、そう、人種です。

日本には、人種差別に代表されるような、自分ではどうしようもない要素による不平等が少ないことで、他国と比べると平等であることに重きを置きがちな傾向があると私は考えています。


例えばアメリカでは、かねてから構造的な貧困が社会問題になっていたり、最近だとBLMで黒人差別がクローズアップされたのが記憶に新しいと思います。

アメリカの黒人家庭では、ちょっとした外出でも身だしなみを整え、警官の目に止まらないように気を付けるそうです。そうしないと、日本で言う職質に合う確率が高いからです。

子供に対する教育では、警官の視界における黒人の推奨される立ち振る舞いについて親から伝えるそうです。何も気にせずに白人と同じ振る舞いをすると、黒人だけが目を付けられたりと、不利な立場になりやすいからです。

人種という、自分ではどうしようもない要素が引き起こす不平等が、かなり身近にある環境と言えるのではないでしょうか。

日本にも、当然のように人種差別は存在しますが、差別の身近度合いが異なるように思います。つまり、特定の人種であることによる不利益、もしくは利益を感じづらい環境だということです。

不平等が当たり前の環境において、平等であろうとすることはとても難しいことだと思います。場合によってはあまりに理想的過ぎて滑稽に映るかもしれません。

しかし日本では、そういった明確な不平等に触れる機会が少ないため、比較的「平等」を実現しやすい環境にあると言えるのではないでしょうか。

それが良いことか悪いことかは意見の別れる部分だと思いますが、日本において「平等」という考え方に重きが置かれているのはそういった背景が多分に影響している、と私は考えています。

今回は以上です。
ありがとうございました。


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