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ミュージカル『シリウスの伝説 キティとダニエルの大冒険』レビュー(映画『シリウスの伝説』公開40周年記念企画⑤)

本来ならこの記事は2021年7月18日にアップする予定でした。しかし、18日とその前後で突然の私用ができてしまい、その日にアップすることができませんでした。大変申し訳ございません。それでもなんとか気を取り直して、映画『シリウスの伝説』公開40周年記念noteの最後を飾る企画として、サンリオファミリーミュージカル『シリウスの伝説 キティとダニエルの大冒険』の感想をアップしたいと思います。

はじめに

サンリオピューロランドは屋内型パークということもあって、館内にいくつか劇場を設けており、そこではサンリオ映画を題材としたミュージカルショーやパレードが、現在まで数多く上演されてきました。具体的には『ハローキティの妖精フローレンス』や『ちっちゃな英雄(ヒーロー。原作は『ねずみ物語』)』『MEMORY BOYS 想い出を売る店』など。『シリウスの伝説』も、パレード『レジェンドオブシリウス』やミュージカル『マイメロディの星と花の伝説』などに姿を変えながら、静かに生きながらえていたのです。

しかし、今回紹介するミュージカル『シリウスの伝説 キティとダニエルの大冒険』は、これらのショーやパレードと異なり、2002年ごろに全国の公民館や多目的ホールで巡回公演された作品だったようです。サンリオは全国各地を回りながら、こういったファミリーミュージカルを定期的に上演しており、本作もその一環だったのでしょう。ついこの間、某動画配信サイトでこのミュージカルの本編を鑑賞する機会がありましたので、原作(映画『シリウスの伝説(1981年)』)と比較しながらあらすじと感想を述べていきたいと思います。ネタバレ全開でいきますので、未見の方はくれぐれもご注意くださいね。

火の国と水の国

火の国と水の国では、シリウスを中心とする水の国、マルタを中心とする火の国の人々が登場し、それぞれの国の仲間を集めての祝祭が行われていました。

シリウス「我ら水の国と火の国が、いつまでも仲良く過ごせるよう、さあ、踊りあかそう!」

本作のシリウス(演:町田正明)は青系の衣装、マルタ(演:中野祥子)は赤系の衣装で登場。阿部行夫氏のこだわりと対照的に、水といえば水色、火といえばオレンジというような、視覚的にわかりやすい配色になっています。演者二人は口パクのようで、声優は特定できないものの、それぞれ古谷徹さん・小山茉美さん(シリウス・マルタの声優)の声に近く、そこに原作への愛を感じました。

そこへ現れた悪魔・アルゴン(原作と違って等身大のサイズ。ギガゾンビのような見た目)は二つの国の仲間たちに嘘を吹き込んでしまい、仲間たちが相手国の者をそれぞれ警戒し始めます。原作ではシリウスとマルタが出会った頃からすでに対立しているため、回想シーンのみで綴られるものの、二人の「直接の仲間同士」が対立する描写はなんだか新鮮でした。原作でいうところの、チークとピアレがいがみ合うような感じです。

マルタ「どうしたの?みんな」
シリウス「さっきまで、あんなに仲良くしてたのに」
マルタ「落ち着いて!何があったの?」
シリウス「教えてくれ、仲違いのわけを」

本作にはグラウコスとテミスが登場しないこともあり、シリウスとマルタは恋とタブーのはざまで葛藤することなく「もともと仲の良かった二つの国が引き裂かれる」さまを自分たちの代で経験することになりました。本作のシリウスは「マルタを好きになって何が悪いんだ!」なんてしきりに言うことはありません(笑)。

キティと不思議な絵本

キティ「『そしてそのあと、火の国と水の国の者は、決して仲良くしてはならないという掟が作られてしまったのです。それでも、互いを忘れられないシリウスとマルタは、そっと会うしかなかったのです』…」

場面が変わり、ようやくサンリオキャラクターズ(ハローキティ・ディアダニエル・コロコロクリリン・ポチャッコ・バッドばつ丸・マイメロディの六名)が登場。先程のシリウスとマルタの物語は、キティたちが読んでいた絵本だったのです。キティが持っている表紙のロゴが原作と同じであるところに妙に好感が持てます。

ここで筆者のツボにハマったのがばつ丸の描写。歌う前からクリリンをいじめていた彼ですが、歌の間奏部分でその理由が明らかに。

ばつ丸「やいっアルゴン!オレさまは水の国の王シリウスさまだ!かかってこぉーい!」
クリリン「ええっ、ぼく、アルゴンなんてやだよ~」
ばつ丸「いいから!ジャーンプ!ヤアーッ!(攻撃)」
クリリン「(ばつ丸から逃げて)メロディ助けてよぉ」
マイメロ「いやーん!」
ばつ丸「(マイメロを引っ張って)オレさまのマルタに何をするっ!ヤーッ!(再び攻撃)」

マイメロディが「メロディ」と呼ばれているのが今となっては逆に新鮮(テレビアニメ『おねがいマイメロディ(2005年)』で『マイメロ』の呼び方が定着)ではあるものの、原作において、シリウスが仲間たちの容態を確かめるために岬を去っても、そんなことも気にせずシリウスが戻ってこないことに激怒する恋愛至上主義の天然ワガママ女・マルタと、大木の下敷きになっても助けなかったり、最後に食べるはずのラッキョウを奪ったり、巨大ソフトクリームを与えて下痢にさせるなどして、クロミちゃんにさんざんひどい仕打ちを行った天然腹黒ウサギ・マイメロマイメロがマルタ役とは…。要らんものが込み上げてきました。

みんなで歌い終わったあと、地響きが鳴り、なぜか絵本の世界へ召喚されてしまうキティたち。ここからみんなの絵本の世界での冒険が始まります。

逢瀬のとき

シリウスとマルタは、原作のリリカの岬を彷彿とさせる場所で会うしかありません。本作で筆者自身が一番嬉しかったのが、このシーンも含めてシリウスとマルタが歌唱するところです。その理由として、サンリオ映画とディズニー映画の音楽の関係について振り返っていきましょう。

サンリオが映画を作るきっかけとなったのが、サンリオ創立前、初代社長(現会長)の辻信太郎さんが、ディズニー映画『ファンタジア(1940年)』を鑑賞し、非常に感銘を受けたことにありました。辻会長がサンリオで映画を作ったのも、『ファンタジア』を超えるアニメーションを作りたいという明確な野心があったからです。そのため、サンリオ映画における音楽の使われ方は、登場人物が歌唱するよりも「BGM」や「オーケストラ」という意味合いが強いです。

しかし、90年代になると、『ファンタジア』の存在自体が前時代的になり、『ファンタジア』がディズニーアニメの最高峰ではない時代が到来してしまいました。『リトル・マーメイド(1989年)』『美女と野獣(1991年)』『アラジン(1992年)』などに代表される、登場人物の歌唱シーンを効果的に挿入したブロードウェイ・ミュージカルのような作品が主流になっていったのです。

この流れは、アメリカ国内における他のアニメスタジオにも多大な影響を及ぼしました。『おやゆび姫 サンベリーナ(1994年)』『アナスタシア(1997年)』『プリンス・オブ・エジプト(1998年)』『サウスパーク 無修正映画版(1999年)』などの、非ディズニーのアメリカのアニメ映画において、登場人物をセリフ代わりに歌唱させるミュージカル・シーンがふんだんに盛り込まれるようになりました。しかし、00年代以降、ピクサーとドリームワークスの隆盛やディズニーの暗黒時代もあって、このようなスタイルは下火になっていきます。

ディズニーはやがて、ボブ・アイガーやジョン・ラセターといった革新的な人物を迎え、新たな黄金時代とミュージカル路線を復活させていくものの、それはあくまでディズニーのみでのこと。アメリカの他のアニメスタジオはディズニーの真似をせず、独自の路線をとっていきました。

例えば、音楽をテーマにした作品にしても、ドリームワークスの『トロールズ(2016年)』とイルミネーションの『シング(2016年)』は、登場キャラクターの歌唱シーンはオリジナル曲以外にも、既存の楽曲のカバーも使われるジュークボックス・ミュージカルの要素を含んだ作品だったし、ピクサーの『リメンバー・ミー(2017年)』は、歌を言語化するのではなく、ステージ上で歌うような形式を取ることで、ディズニーとの差別化を図っています(もっと言えば『シング』もこのスタイルですね)。

近年のディズニーは『シュガー・ラッシュ(2012年)』『ベイマックス(2014年)』『ズートピア(2016年)』『ラーヤと龍の王国(2021年)』などのミュージカルに頼らない作品も増えていますけど、近日公開予定の『ミラベルと魔法だらけの家』は『モアナと伝説の海(2016年)』以来のミュージカル作品であることがアナウンスされています。すなわち、アメリカのアニメーション業界で、現在も定期的に「セリフ代わりに自分の心情をオリジナル楽曲で歌うブロードウェイ・ミュージカル」というスタイルの作品を公開しているのは、ディズニーぐらいなのです。

輝きの花とクライン草

シリウスとマルタは「メビウスの丘にある九十年に一度訪れるもの」に対し、自分たちの計画を実行していくわけですが、その手段が原作と本作で大きく異なっています。そしてそのことで、本作と原作のシリウスとマルタのキャラクターの違いも浮き彫りになってくる気がしました。

原作では、メビウスの丘に咲くクライン草の胞子に乗って、宇宙のどこかにある火と水が共に暮らせる星へ向かっていこうとします。言うなれば駆け落ちです。

それに対し、本作では、メビウスの丘に咲く輝きの花に祈りを捧げ、二つの国の人々の仲と平和を取り戻そうとします。

本作のシリウスとマルタは、原作と比べると、グラウコスとテミスが登場しないこともあって、国民たちのことを心配する、冷静で大人びたキャラクターとして造形されています。序盤からすでに愛し合っているため、平和を取り戻せば、自分たちも晴れて結ばれることができるのです。それに対し、原作のシリウスは十六歳で、マルタも彼と同年代くらいと思われ、国の長としての責任感が薄く、基本的に自分たちのことしか考えていないような青臭さが目立ちます。本作のシリウスも、ダニエルたちとの初対面において落ち着いた態度で接しており、空腹の彼らをごちそうでもてなしたりしています。原作のシリウスだったら、腰に差している短剣を突き出して攻勢をかけようとして、かえってダニエルたちを混乱させていたことでしょう。

サンリオの裁量

筆者は、サンリオは自社作品に対して、内容に過度な口出しはせず、ある程度の脚色にフレキシブルに対応する、すなわち裁量が大きいという評判をネット上で見かけます。それが『おねがいマイメロディ』シリーズや『ジュエルペット』シリーズのカオスな作風を生む土壌にもなったのでしょう。

それよりはるか昔、『シリウスの伝説』を生み出したサンリオ映画の時代も、他者原作(やなせたかし氏、手塚治虫氏など)作品以外のほとんどは辻会長が原作者を務めています。社長業の傍ら、自宅に戻ったらメルヘン小説を執筆していた彼のことですから、サンリオ映画内に彼の原作が使われるのも当然の流れと言ってよいでしょう。現在のサンリオ作品に続く「裁量の大きさ」も、サンリオ映画時代からあるように感じます。

『シリウスの伝説』はもともと、辻会長が著した同名小説が原作となっています。そしてその内容も映画と大体変わらないものの、細かいところで微妙な違いがあります。例えば、マルタを慕う火の娘・ピアレは、映画内ではマルタを守るため、篝火になって死んでしまいますが、小説では最後まで生き残ります。『妖精フローレンス(1985年)』という作品においても、主人公は小説では工科大学を目指す受験生ですが、映画ではオーボエ奏者となっています。中島みゆきさんが演じた妖精ムジカも、小説には登場しません。

シリウスの危機

シリウスとマルタは、大海亀のモワルから輝きの花のことを聞かされたキティ一行と合流し、みんなでメビウスの丘を目指す旅へ。旅の途中、怪物に襲われたばつ丸を救うため、シリウスは重傷を負ってしまいます。薄暗い場所で再びみんなが合流すると、シリウスはメビウスの丘を探すように言い残し、意識を失ってしまいます。シリウスの死の直後、キティたちの周りをカラフルな蕾が取り囲んでいきます。これが輝きの花だったのです。でもどうしてそうだと分かったんでしょう。

キティ「マルタ!さあ早く。シリウスがもう一度元気になるように、みんなで祈るのよ!」

アルゴンを倒し、改めてシリウスの復活と二つの国の平和を願い、祈りを捧げると、シリウスが息を吹き返します。

舞台作品ならではの演出として、キティたちは観客が持っている輝きの花の力を使って、(ミラクルライトのようなものなのでしょうが、観客のプライバシー保護もあってか、客席内が暗く加工されているため、光が左右に揺れる様子が伝わりづらいです)チアふるタイムの要領で現実世界に帰還。

最後は再びシリウスとマルタ、二つの国の人々が登場し、キティたちも水の国と火の国の衣装に着替えて、みんなでダンスを踊りながら大団円となります。

第四の壁とチアふるタイム

アニメ『ミュークルドリーミー みっくす!(2021年)』では、毎回エピソードの後半に、みゅーと日向ゆめがミュークルレインボーを強化させるため、カメラ目線で視聴者の子供たちに向けて「チアふるタイム」を呼びかける演出が登場します。

このような、フィクション内の登場人物が、作品そのものや現実世界に言及する「メタ発言」は、『おねがいマイメロディ』や『ジュエルペット』シリーズから見られました。「サンリオアニメ=意図的にネタを仕込むカオスアニメ」であることから、メタ発言はカオス要素を期待する視聴者へのウケ狙いという意味合いが強いと感じます。

制作方針が基本的にガラパゴス化しているサンリオアニメと違い、本格的な世界進出を狙っていたのが昭和期のサンリオ映画。サンリオ映画はあくまで「物語」であって、辻会長の哲学を反映させた芸術性と気品が持ち味でした。

本作の前身になったと思われる、『シリウスの伝説』がモチーフかつ、サンリオキャラクターと共演させたサンリオピューロランドのパレード「レジェンドオブシリウス(1999年)」においても、本作同様「絵本」と紐付けることで閉鎖性が強調されています。

『ハローキティの妖精フローレンス』『マイメロディの星と花の伝説』のような例外はあれど、それは辻会長の作った物語で引き続き守られているようで、『サンリオハートフルパレード Believe』でも、『シリウスの伝説』は、市井の人間がシリウスとマルタに扮するという演出を採用しました。サンリオ映画における「第四の壁」については、サンリオアニメのような意図的なものではなく、現実と虚構の線引きを守っているところが素晴らしいです。

とはいえ、筆者も自分の妄想内で、原作のマルタと『SHOW BY ROCK!!』のシアンとほわんを対面させて「今のサンリオってこんな萌えキャラしかいないの?あなたたちってオタクのラブドールみたいでブサイクね」なんて言わせたりしていますけど。

愛とは信じて疑わぬこと

映画『シリウスの伝説』のテーマとなるラストのモワルの名言です。筆者が本作に臨む上で一番気になったのが、本作でもこの言葉をしっかり表現できているかということでした。

原作のメビウスの丘の場面において、二人が再会したとき、到着が遅れたシリウスに対して、女王になったマルタは彼の名も呼ばず、現実を突きつけるのみです。原作において、辻会長が一番こだわった場面であるらしく、キネマ旬報での座談会の発言をここでもう一度振り返ってみましょう。

(波多)監督と長期間、話し合ったのはラストの愛の在りようだった。マルタのシリウスに対する反応ですね。最後にシリウスが訪ねてきたとき素直に抱きついていくという意見と、今頃来たって遅いとなじるという意見なんです。ただ僕としては、死を覚悟して会いに来たシリウスをなじったことの後悔が罪の意識になっていくところをどうしても出したかったんですね。火の国を守るために女王にならなければいけない成長したマルタの、異性との愛の板ばさみ、そこに出るであろう女の性(さが)が絵で表現できたかどうか、ということですね。

シリウスの死を見届けたマルタはようやく謝罪の言葉を口にし、自らも海に飛び込むことで愛をつらぬいていきました。

まず、本作において重傷を負ったシリウスと離れ離れになったとき、キティとマルタのこのようなやりとりがあります。

マルタ「キティ、とても心配なの。シリウスは来てくれるかしら…」
キティ「もちろんよ!約束したんだもの。信じるのよ!」

そのあとの二人の歌においても、願い続けること、遠く離れていても愛は届くことが歌われます。優しさの象徴たるキティが歌うことで説得力が増しますよね。シリウスが意識を失う直前のマルタとの会話も、原作と違ってマルタの彼への信頼がわかるようになっていました。

シリウス「マルタ、ごめんよ…約束を守れなくて」
マルタ「ううん、来てくれたじゃない」
シリウス「あぁ…でも、メビウスの丘を探せなかったよ…」
マルタ「そんなことない!こんなになっても来てくれたじゃない!」

そしてシリウスが復活したあと、ダニエルがかけた言葉が印象に残りました。

ダニエル「シリウスとマルタが互いに信じ続けたおかげだよ!」

原作の上映時間が一時間四十八分なのに対し、本作の上演時間は約四十五分しかないので、原作と比べるとストーリーはかなり簡略化されています。それでも、シリウスとマルタが愛をつらぬく=信じ合う姿はしっかり表現できていました。

おわりに

ストーリーをあえて悲劇にしなかったところも、子供たちにショックやストレスを与えないような気配りができていて良かったと思うし、ピューロランドを飛び出しての「サンリオによるサンリオ映画の普及活動」の一環として、もちろん一つのファミリーミュージカルとして楽しむことができました。

今回紹介した箇所以外にも、ばつ丸とクリリンのヒゲダンスや、消されてしまったリンディ・レパードなど、見所はたくさんありますので、興味がある方は是非ご覧になってくださいね。

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