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感受性の単位

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「書くことが出てきたら書こう。」そう思っていた数週間前と、
「今日書けることはなんだろう。」という視点で暮らすここ最近は、やっぱり違う。

数日前からここnoteで日記を書き始めたことで、暮らしの質というか、感じる幅というか、感受性をどこまで使って暮らしてるかが、変わってきているように感じる。

500字程度の軽い日記だから、大それたこと書いているわけではないけれど、料理ひとつ、掃除ひとつとっても、同じ動作やプロセスから何をどう感じるか、どんな思いを込めるかを意識するようになった。

なぜそれに気付いたかというと、昨日はnoteを書くことを前提に1日を過ごすことを、なんと忘れてしまっていたから。書くことを前提に暮らしを送っていると、感じることがたくさんあって暮らしの単位が細かく感じるのだけど、昨日は1日を終えてみると、なんだか大枠な感情しか覚えてない。全体の枠は捉えられてるのだけど、楽しい1日だったなあ〜とか、疲れたな〜くらいの感想しか抱けない。

逆に書くことを前提に時間を過ごせている時は、感受性の単位が豊かだ。窓を開けた時に家に入る風がどんな風だったか?湿度は?温度は?その風を受けた私はどんな風に心地よかったのか、何を感じて、その風から私は何を拾ったのかを、事細かに感じられている。

昨日はそんな感じ方を忘れて過ごしてしまった1日だったみたいで、いざ今日の朝昨日のことについて書こうと思うと何も浮かんでこない、昨日どんな1日だったかを思い出せない。

自分の感受性を保たないと「書く」ってできないんだ。

なるほど、それを感じさせてくれた昨日だったってわけだ。

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