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「白銀の輪舞」第一章「蘇生」その3


「やあ、本部長さん。お早いお着きでしたな」

 ベッドの上で慌てて敬礼している鋭次郎の横で、中年医師がにこやかに田森本部長を迎えた。

「先生。すぐに連絡してくださって、ありがとうございます」

 四十代半ばの本部長は、神経質そうな顔でぎこちなく笑いながら頭を下げた。本部長を呼び出したのは、どうやらこの当直担当医らしい。

「いえいえ。『桂木巡査が目覚めたら、すぐにでも見舞いたい』なんて、本部長さん直々にお願いされていたらね、それはもう当然ですよ」

「その……他には?」

「はい。まだ本部長にしか、連絡しておりません」

「助かります」

「いやあ。それにしても、ついさっき連絡したばかりなのに、本当に早かったですな」

 人の良さそうな中年医師は、心の底から感心したように言った。

「まだ桂木さん本人にも、本部長のことは話していないくらいですよ」

 本部長のベージュ色のコートの肩には、溶け残った雪が少し付いていた。

「桂木巡査には、わたしから話します。では先生……よろしいでしょうか?」

「はい。短時間でしたら、面接していただいても結構ですよ」

 医師はベッドサイドの椅子に座ったまま、愛想良く答えた。

「いやあ桂木さん。早速本部長にお見舞いに来て頂いて、良かったですねえ」

「はあ……」

「本部長は、本当に部下想いだ。で、あれかな? こういう名誉の負傷の場合は、勲章か何か貰えたりとか表彰されたりとかするんですかね?」

 鋭次郎が答えに窮していると、本部長がコートを脱ぎながら、気まずそうに医師を見た。

「あのう、先生」

 ようやくその場の空気を読んだ医師は「ああ」と呟きながら、立ち上がった。

「では、私は宿直室に戻りますので……桂木さん、もしも具合が悪くなったら、さっきみたいにインターホンで呼んでください」

「はい」

 本部長は医師を病室の入り口まで見送ると、後ろ手にドアを閉めた。ベッドに起き上がろうとした鋭次郎を、右手を上げて止める。

「桂木巡査、寝たままでいい」

「はあ」

 細身の本部長はコートを隣のベッドに置き、さっきまで医師が座っていた椅子に腰掛けた。真夜中だと言うのに、コートの下は警察の幹部服だった。階級を表す金属製のアクセサリーが、ベッドサイドの照明に光る。スピーカーからは、さっき看護師がつけてくれたスパニッシュ・ギターが静かに流れている。

 突然の県警本部長の訪問に、桂木鋭次郎はとにかく驚いていた。本部長ポストは、警察庁などから送られてくる、いわゆる『キャリア組』が座る席である。同じ警察組織の中にいても、叩き上げの現場警察官とは住む世界が異なる存在であり、両者の間には越えがたい壁がある。

 そもそも、現場の警察官が本部長の「生」の姿を見る機会など、県警総動員の式典や訓練に参加したときくらいである。その本部長が一介の巡査を見舞いに訪れるなどというのは、マスコミ向けのサービスならともかく、通常では珍しいことと言える。しかもこんな真夜中にたったひとりで病院に姿を現すのは、まさに異例の行動であった。

「今回は、大変だったな」

「いえ……」

 鋭次郎は恐縮しつつ、頭を下げた。地方の国立大学を中退した鋭次郎にとって、旧帝大を卒業したキャリア組は多少の学歴コンプレックスも手伝い、少し苦手な存在でもあった。

「捜査報告書では、傷などの状況証拠から見て、君は至近距離から拳銃で狙撃されたと推測されている。それに間違いないかね?」

 警察トップというよりは、大学の研究者といった雰囲気の本部長が質問した。短めの髪は、几帳面に七三に分けられている。

「はい……見知らぬ大男から、出会い頭に拳銃で発砲されました」

「やはりそうか。銃弾は見つかっておらんのだが……」

 田森本部長は胸ポケットからハンカチを取り出し、額の汗をぬぐった。いつの間にか、かなりの汗をかいている。雪が降る寒い屋外から、暖房の効いた暖かい病室に急に入ったせいだろうか。

「君が首を狙撃されて助かったのは、幸運だったとしか言い様がない。いや、本当に良かった」

「ありがとうございます」

 鋭次郎はベッドに座ったまま、出来る限り深々と頭を下げた。

「うむ……」

 本部長は頷いた後、何かを迷っているかのようにしばらく黙り込み、やがてゆっくりと話し出した。

「これは……俄かには、信じ難い現象ではあるのだが。君の首の……銃で撃たれた傷口が凍り付いていて、出血を妨げていたそうだ」

「傷口が?」

 鋭次郎は首筋に手をやり、新しい皮膚の感触を確かめた。

「そうだ。大変不思議なことだが、倒れている君の傷口だけが凍っていたのだ。それも相当、出血した後にだ」

 本部長は、訝しげに首を振った。

「今夜も外は随分冷えるが……あの夜も、気温が低かった。粉雪が降っていたし、アスファルトの冷え込みは確実に氷点下だったろう。だが、それにしてもだ……『道路に横たわった人間の傷口だけが凍る』などということが、本当にあり得るのだろうか?」

「……」

 鋭次郎の表情を見て、田森本部長は頷いた。

「そう、あり得ない。信じられない現象だ。だが『事実』だ。証拠の写真もある。しかし、科捜研で色々な仮説を立てていたが……納得のいく説明は、結局得られていない」

 科捜研とは、刑事部内に設けられている科学特捜研究所のことである。名前の通り、事件を科学的な面から捜査する専門班だ。

「あ……」

 鋭次郎は気を失う間際、女の子の声とともに、首筋に鋭い冷たさを感じたことを思い出した。だが曖昧な女の子の記憶や看護師とのやり取りも含め、本部長に話すようなことではない、と思い留まる。

「どうした? 何か思い当たることでも?」

「いえ……自分の思い違いであります。すみません」

「そうか?」

 本部長は鋭次郎の表情を探るようにじっと観察していたが、ハンカチで額の汗をぬぐうと、神経質そうな顔に微笑を浮かべた。

「だが、君がこうして助かったのは、事実だ。まずもってわたしは、君が生き延びてくれたことを嬉しく思う」

「ありがとうございます……」

「うむ。本当に良かった」

 鋭次郎は黙って頭を下げた。鋭次郎にとっては助かった理由も驚きだったが、それ以上に見舞いに訪れた本部長に対してひたすら恐縮していた。

 だが同時に鋭次郎は、言葉に言い表せない『違和感』のようなものを感じ始めていた。

 ――なんだろう……?

 具体的に何がおかしいのかまでは、分からない。理屈ではないのだが、胸の中で何かがざわめいていた。何故だか、眉間の古傷が軽く疼くような感覚もあった。それは何かを警告しているようにも感じられた。

 ――虫の知らせってやつ?

 とは言え、元来鋭次郎はリアリストであり、勘や霊感のような目に見えないものには興味を持っていなかった。それに、今は雲の上の存在である本部長を目の前にしており、違和感の正体をじっくり考える心のゆとりも無かったのだ。

「桂木君」

 鋭次郎の心に生じた違和感を見透かしたかのように、本部長は言った。

「このわたしが、何故こんな真夜中にわざわざ君を見舞いに来たのか、不思議なんだろう?」

「はあ……」

 鋭次郎は恐縮しつつ、頷いた。

「正直でよろしい」

 再び細面に笑みを浮かべる。

「答えは簡単だ。それだけ私は、君が襲われた今回の事件を重要視している、ということだよ。もちろん警察官が狙撃されるというだけでも、重大な案件だが……実を言うと、今回の事件はそれに留まらないと考えている」

 本部長は真顔に戻り、一瞬、言葉を飲み込んだ。

「君が撃たれたあの夜以降、管内では凶悪事件が相次いでいる。殺人、強盗、放火……ありとあらゆる凶悪事件だ。犠牲者も少なからず出ている」

「え……」

「それだけではない。軽微な事件や少年犯罪、自殺者も増加している。急増している、と言っていいレベルだ。さらに不思議なことに、これらの案件はN県の中でも、特にN警察署管内に集中しているのだ」

「N署管内に、ですか?」

「そう。理由は分からない。だが、単なる偶然とも思えない」

 鋭次郎が気を失っていた二ヶ月の間に、N署は大変な状態に陥っていたようだ。

「これはあくまで私見だが……それぞれの事件は全く無関係のようでいて、実は原因を一にしているのではないかと思う」

 本部長は淡々と喋り続ける。

「あくまでも私見だ。だが……私は、これら治安の悪化は、さらなる大事件の前兆に過ぎないのではないかと考えているんだ。やがて起こる巨大地震の、予震のようなものではないかとね」

 ――大事件の前兆? 予震?

 本部長の話は飛躍し過ぎていて、具体性に欠けるように思えた。それともN署管内で頻発している事件の数々を結びつける手がかりが、何か存在するのだろうか。

「本部長、その大事件とは何でありますか?」

「残念なことに、まだそこまでは私にも分からない……」

 本部長は首を横に振った。

「さっきも言ったように、これはあくまでも私見であり、いわば『勘』のようなものだ……時に桂木君、君は勘を信じるかね?」

「いえ、全く信じていません」

 鋭次郎は率直に答えた。

「正直者だな」

 本部長は、やや引きつったような笑顔を浮かべた。

「こういう場合は嘘でもいいから、もうちょっとオブラートに包んだ表現をしたらどうかね。これでもわたしは、かなり先輩に当たる警察官だぞ?」

「申し訳ございません……」

 鋭次郎は、真っ赤な顔をして俯いた。自分には周囲への気配りに欠けているところがある、と自覚していた。無意識に人を傷つけ、その場の空気をしらけさせるようなひと言を言ってしまうことがあるのだった。

 正直言って、人付き合いは苦手な方である。子供の頃はそうでも無かったと思うが、いつの頃からか、そうなっていた。

 鋭次郎が警察官を職業に選んだ理由は、人付き合いの煩わしさから逃れたい気持ちもあったのだが……実際はどんな業界のどんな仕事でも、人が複数集まれば、必ず何らかの人間関係は生まれるのであった。

「謝らなくてもいい。警察官として、現実的な物の見方をするのは悪いことではない」

「……」

「だが私としても、何もオカルト的な事を言っているのではないんだ。一応これまで刑事畑一筋に歩いてきた、事件屋としての勘だよ。それなら分かるか?」

「はい……」

 すっかりこの場から逃げ出したい気分になっている鋭次郎を相手に、本部長は構わず話し続ける。

「話を戻そう。いずれ表面化すると思われる大事件に向けての捜査に、桂木君。君に加わってほしい」

「え?」

 警察官が捜査に関わるのは当然のことだが、本部長が直接現場に命令を下すというのは、極めて異例である。

「君が眠っている間に、辞令を出させてもらった」

「辞令を……?」

「桂木鋭次郎巡査。君に県警本部、刑事部捜査第一課への異動を命じる。君は刑事になる、ということだ」

「……!」

 予想を超えた突然の辞令に、鋭次郎は言葉を失った。

 捜査の花形、刑事は狭き門である。日頃の勤務成績や上司の推薦はもちろん、厳しい面接試験に合格した後、警察学校での講習を経てようやく新米刑事になることができる。なろうと思っても、簡単になれるものではないのが刑事なのだ。

 しかも所轄の警察署ではなく、県警本部捜査一課への辞令とは。

 ちなみに鋭次郎自身は刑事への漠然とした憧れはありつつ、数十倍、数百倍という難関ぶりに諦めていたクチであった。

「どうした?」

 唖然としている鋭次郎に、本部長が話しかけた。

「辞令に不服があるのかね?」

「いえ、まさか……」

 鋭次郎は慌てて首を振った。

「ただ、私が刑事だなんて……想像もしていなかったものですから」

「そうだろうな」

 本部長が頷いた。

「分かっているだろうが、これはあくまでも特例だ。要するにN県警は、切羽詰っているのだ。人手が足りない。勤務実態や上司の報告などから、君の資質なら十分可能と判断した。君には、退院後直ちに捜査に加わってもらう。ただし、君への指揮命令は直接私が下すことになる。言わば、本部長室付の特命刑事だ。いいな?」

「はい!」

 何もかも特例尽くしだ。鋭次郎はベッドの上で敬礼をした。

 田森本部長は、再び胸ポケットからハンカチを取り出し、額の汗をぬぐった。額だけでなく、首や手、体中から大量の汗をかいている。まるで灼熱の砂漠を歩いているかのような、異常な汗のかき方だった。

「ところで桂木君。君、出身は?」

「東京です」

「へえ? 意外だな」

 本部長は、言葉ほど鋭次郎の出身地に関心を持っているようには、見えなかった。当たり障りの無い話をして、お茶を濁していると言った印象である。ハンカチを広げ、顔全体を拭きながら話し続ける。

 鋭次郎の中の違和感が、再び育っていく。

「君はてっきり、地元出身とばかり思っていたよ。思い込みはよくないな」

「まあ……と言いましても、父が転勤族でしたから、東京が故郷って感じでもないんです」

「N県へ来たのも、お父様の転勤で?」

「はい。高校生のとき……それでたまたま、受験でN大学に合格しました」

「大学を卒業して警察官に?」

「いえ。在学中に、父が交通事故で亡くなりまして……それで大学を中退して、N県警の警察官採用試験を受けたんです」

「お母様は?」

「両親は私が子供の頃、離婚しました。弟もいたのですが、両親が離婚して以来会っていません」

「そうか。苦労しているんだな。年齢の割りに思慮深い性格なのは、そのためか」

「いえ……」

 本部長はねぎらいの言葉をかけつつも、全く鋭次郎を見ていなかった。多量の汗をかきながら、無表情に白い壁を見つめている。壁にはベッドサイドの照明が作った、ふたりの影が映っていた。

「じゃあ君は……かつてこのN市に、鬼伝説があったことは、知らないのかな?」

「……は?」

 鋭次郎は思わず聞き返した。

「あの、何でしょうか?」

「だから、鬼の伝説だよ」

「はあ……初耳です」

 戸惑う鋭次郎を、本部長は薄ら笑いを浮かべて振り返った。

「鬼だよ、鬼……あの凶悪な『酒呑童子』と並び称された、残酷な人喰い鬼の伝説さ……」

 鋭次郎の中の違和感が、いよいよ大きくなってきていた。本部長は、何故急に事件とは関係の無い鬼の話などを始めたのだろうか。

「……時に桂木君。君を撃った犯人の顔は、見たのかね?」

 本部長は、荒く息を吐きながら尋ねた。

「はい」

「顔つきは? 思い出せるかね?」

 鋭次郎は目を閉じ、男の姿形を思い浮かべた。プロレスラーのような男の巨躯……それとは不釣合いな怯えた表情まで、克明に思い出す事が出来た。

 ――そうだ。あの男は、何かを怖がっていた。

 一体何を怖がっていたのだろうか。

「はい。よく覚えています。似顔絵も描けると思います」

 凍てついた大気の中を流れてきたギターの音と、枕元のスパニッシュ・ギターが重なった。

「さすがだ。記憶力に関する君の評価も、非常に高かった。顔を覚えているなら、すぐに逮捕できそうだな」

「大変な巨漢で……身長は百九十から二百センチくらいありそうでした。体型的な特徴もありますから、ホシを上げるのは比較的たやすいかと思います」

「そうか。たやすいか……」

 本部長の汗はいよいよひどくなり、あとからあとから噴き出してくる。手にしたハンカチはすでにぐっしょりと濡れていた。

「あの、本部長、大丈夫ですか……?」

「うむ」

 目に汗が入ったせいか、本部長は顔をしかめながら頷いた。

「そんなことより……先程も話した通り、管内では凶悪事件が相次いでいるが……だが、桂木君」

「なんでしょう?」

 本部長は悩まし気な表情を浮かべた。

「……人喰い事件だけは、まだ起こってないんだ」

「は……?」

「人喰いだよ。言葉そのままの意味だ。人が生きたまま何者かに喰われる、残虐な事件だよ……それだけは、まだ起こってないんだ」

「……?」

「アシがつかないように、我慢していたのかな? それとも、まだ人を喰うほどには回復をしていないのか? 意外とグルメで、獲物を選んでるとか? どうだろうねえ。全く、興味深いじゃないか」

 本部長の呼吸はますます荒く、浅くなっている。

「桂木君。君は、食べたことがあるかね?」

「何をでしょうか?」

「人肉に決まってるじゃないか」

 鋭次郎の背筋に戦慄が走る。真顔で話す本部長の顔に、冗談の色は全く無かった。

「かく言うわたしも、しばらく人間の肉は食べていないのだが……」

 変だ。

 本部長の言動は、明らかに異常だ。

「キミの傷ねぇ……傷口だけが凍っていたって、報告書に書いてあったしネ、写真も見たけどさぁ……」

 本部長は急にくだけた口調になり、鋭次郎に笑いかけた。

「はあ」

「その血の止め方、三百年前にも、見たことがあるんだよねぇ……」

「……」

 ――三百年前?

 何を言っているのだろう。

 余りにも突拍子が無いため、鋭次郎は本部長の真意を測りかねていた。あるいは、何かの比喩表現なのだろうか。

「キミは、何だ、アレか? ずばり言っちゃうと要するに、あの『一族』の関係者かね?」

「は?」

「正直に答えたまえ」

 本部長の顔が真顔に戻った。

「君は正直が取り柄な、真面目な警察官なんだろう?」

 神経質そうに目をしばたたかせながら、質問を続ける。

「わたしは、嘘をつく人間が嫌いなんだ。正直な桂木君、どうかね?」

 高級官僚にありがちな、高圧的な口調で詰問する。

「どうなんだ?」

「どうと言われましても……」

 鋭次郎は返答に窮した。

「正直に答えたまえ。よいかな? 君はあの、卑しい卑しいあの『一族』の末裔なのか、とこのわたしは聞いているのだよ」

「……あのう」

「どうした?」

 遠慮がちな鋭次郎の態度に、本部長はいらだちを隠さない。

「正直な桂木君、わたしに何が聞きたいんだ?」

「一族とは、何でしょうか?」

「知らんと言うのかっ!?」

 本部長は、いきなり激昂して怒鳴った。

「は、はい……」

 突然の大声に、鋭次郎は凍り付いた。

「この嘘つきめがっ!」

 本部長は怒りの余り、両手でこぶしを作ってプルプルと震わせていた。

「言っただろう! わたしは、嘘つきが、大嫌いなんだっ!」

 中腰になり、顔をベッドの鋭次郎に思い切り近づけ、怒鳴り続ける。

「いいか!? わたしは嘘つきが嫌いだ! いいか! 大嫌いなんだ!」

 血走った本部長の目を正視することが出来ず、鋭次郎は顔を背けた。構わず至近距離で叫び続ける本部長の唾の飛沫が、頬に飛んでくる。

「嘘は嫌いだ、大嫌いだっ! わたしは嘘つきが、死ぬほど嫌いだっ……いや?」

 本部長は不意に怒鳴るのを止めて、ニヤリと笑った。

「……違うな。反対だ。嘘つきは、殺したくなるほど嫌いなのだよ……」

 ベッドサイドの椅子に座り直し、今度は静かに話しかける。

「で、どうかね? どうなのかね桂木巡査。キミはあの卑しい『一族』の末裔なのかな? 正直な警察官の名誉に誓って、正直に答えたまえよ?」

 本部長のねっとりと絡みつくような視線に物理的なまでの圧力を感じながら、鋭次郎は呼吸を整えた。

「恐れ入りますが……本部長、質問をしてもよろしいでしょうか」

「うん? 何だね」

 本部長が猫撫で声で尋ねる。

「怖がることはない。わたしも、さっきはちょっと感情的になってしまったが……正直な君の質問なら、喜んで受け付けようじゃないか。ホラ。何でも聞いてみたまえよ」

 ついさっきまで怒鳴り続けていた本部長とは、まるで別人のような穏やかさだった。鋭次郎はその落差に恐怖を感じながら、質問を続けた。

「恐れ入りますが、お言葉の意味が分かりかねます……そもそも、『一族』とは、何でしょうか?」

「ふうむ」

 本部長は腕組みをした。

「キミは本当に、心当たりがないのかね?」

「はい」

 本部長は、足下の床を見つめながら言った。

「そうか。正直な君がそう言うのだから、本当に関係ないってことか……ということは、だ」

「……?」

「君はやっぱり、通りすがりの、単なる、普通の、正直な警察官だったってことか……じゃあキミ、すごく運が悪いな」

 虚ろな表情で呟く。

「は……?」

「そういうことであれば、自分を撃った男の顔なんか、忘れていればよかったのに。そしたら命だけは、助かったかもしれないのに」

「本部長、それはどういうことでしょうか……?」

「……いや、やっぱり違うな……」

 鋭次郎の質問には、本部長はもう全く興味を失っているようだ。

「君はそもそも、あの時、ちゃんと死んでおればよかったのだ」

 無表情に呟き、目を閉じる。

「あの夜、あのまま死んでおれば、わたしも君が目を覚ますまで待つなどという、無駄なことをしないで済んだし……君だって、今、死なずにすんだのだ……あれぇ?」

 本部長は首を傾げた。

「じゃあどのみち、君は、死ぬしかないってことじゃないか……」

 本部長の体が細かく震えだした。

「本部長……?」

 田森本部長の体の震えが、次第に激しくなっていく。ゼンマイ仕掛けのブリキのおもちゃのような、不自然な震え方だ。汗は止まることなく全身から噴き出し、紺色の制服全体を濡らして、足元に水溜りを作っている。

「本部長! 大丈夫ですか!?」

「ううううう……」

 低い声で本部長が唸り出した。

 身の危険を感じ、インターホンに伸ばした鋭次郎の手を、本部長がうつむいたまま片手でつかんだ。

「……!?」

 痩せぎすの体からは信じられない、まるで万力で挟まれた様な、強い力だった。

 本部長は残った方の手でインターホンをつかむと、メキメキと音を立てて握りつぶしてしまった。スピーカーが一瞬、断末魔のような甲高い電子音を鳴らし、スパニッシュ・ギターのBGMも途切れた。

 細身の外見からは、信じられない怪力である。

「桂木巡査。本部長である私がせっかく謁見してやっているというのに、インターホンで誰かを呼ぼうだなんて、いくら正直な君でも、失礼ではないか……」

 話しながら、本部長の声が神経質そうな高めの声から、野太い声へと次第に変わっていく。

「もっとわたしと、会話を楽しもうよ……ね?」

 突如、本部長が顔を上にあげ、野太い声で叫んだ。

「かつらぎぃ!」

 鋭次郎は呼吸が止まりそうになった。

 下を向いた本部長の顔が、鋭次郎を撃った巨漢の顔に一瞬で変わっていた。

 男は鋭次郎から手を離すと、唸り声を上げながら立ち上がった。骨や肉がきしむ濁った音と共に細い体が厚みを増し、どんどん大きくなっていく。袖口や胸元のボタンが弾け、ビリビリと制服が破れる。

 痩せ型の本部長が、あっという間に身の丈二メートルの大男に変貌を遂げてしまった。元の本部長の面影は全く残っていない。さらに肌の色がどす黒く変化し、ざわざわと音を立てながら灰色の体毛に覆われていく。同時に瞳の色も紅く変化した。血のように鮮やかな、ぬらぬらと光る紅色。

「そんな……まさか……!?」

 あまりの出来事に、鋭次郎は呆然とするばかりだった。

 天井に頭が届きそうな大男は、唸り声と共に大きなため息をついた。

「やれやれ……他人に化けるのは、三十分が限度か……我としたことが、何故こんな目立つ男に取り憑いてシマッタノカ……面倒なコトダ」

 地響きのような低い声に、ところどころ裏声のような高い声と、泡が弾けるような濡れた音が混ざるのが不気味だった。

 ベッドの上でのけぞった鋭次郎は、必死で武器になるものを探した。だが、いくら病室を見回しても、そんなものは見当たらない。

「二ヶ月ブリだな、カツラギぃ」

 大男は体を折り曲げ、鋭次郎に顔を近づけてきた。大きな口から覗いた歯は、肉食獣のように全て尖っている。額の中心には、いつの間にか、円錐形の白く尖った突起がひとつ生えていた。その姿は、まるで……。

「ドウダ。怖いかカツラギ……」

 涎がボタボタとこぼれ落ち、荒い息遣いと共に、生臭い口臭が漂ってくる。

「本部長、いや、あんたは……」

 必死で言い返す鋭次郎に、男は嘲る様な笑みを浮かべた。

「ソウダ桂木。ワレは本部長ではナイ。我はオ前が今、考えている通りのモノ……」

 ――まさか。

 角の生えた大男は、鋭次郎の心を読んだかのように、ニヤリと笑った。血を湛えたような紅い目を細める。

「我コソハ……羅刹。『鬼』だヨ」

 鋭次郎は事態を飲み込むことが出来ずに、混乱していた。

「え……」

 男はゲラゲラと大声で笑った。

「オイオイ、目の前にホンモノがイルッテいうノニ、信じられないか!?」

「そんな……」

「目の前ノ現実ヲ、受け入レラレナイノカ、桂木?」

「まさか、本当に……!?」

「本人が鬼ッテ言ってルンダカらァ、鬼ナンダ。シカモナァ桂木ィ……我コソハ史上最凶ノ、大羅刹様デアル……」

 巨漢がふいに顔を上げ、病室の壁に向かって歩いた。一歩踏み出しただけで床全体が震える。まるで野生のヒグマのような、圧倒的な重量感であった。

「正直者ノ桂木。オマエハ、何て、オロカナンダ」 

 男は病室の壁をいきなり殴りつけた。轟音とともに白い壁に穴が開き、破片や粉が飛び散る。男の手には、壁から抉り取ったコンクリートの塊が握られていた。とんでもない馬鹿力だ。

「どうだ、怖いダロウ、桂木。訳ガ分からなくて、物凄ク怖くて怖クテ、たまらないダロウ……? 分かる、分かるゾ」

 鋭次郎を見つめる大男の紅い目に、見る見る涙が溜まった。

「……!?」

「我も怖い! 怖いんダヨ桂木!」

 ギョロリとした真っ赤な目から、涙が流れ出る。

「ワレハお前が生キテイルト知って、スグに殺ソウト思った。最凶ノ羅刹トハ言エ、三百年ノ眠りカラ蘇ったバカリのワレは、か弱イ……完全ナ復活ニハ、マだ時間がカカる。警察にオワレルノハ、面倒ダカラナ……」

 か弱いと言いつつ、握りしめたコンクリートの塊からは、砕けた粉がパラパラと床に落ちている。

「ダガお前は、アノ憎ラシイ『一族』のヤリカタで、生きノビてイタ! 傷口をコオラセる、アノ遣り方デ!」

 鋭次郎の脳裏に、再び少女の顔と声が蘇った。

「ヤツラめ! 三百年ブリの娑婆ダッテノニ、早速嗅ぎつけテきやガッタ! 気がツクト、街ノ周りは結界ダラケダ! 我は街から、デラレナクナッテイタ!」

 大男が忌々しげに床を踏みつけると、病室全体が激しく揺れ、天井から埃が落ちてきた。

「連中ヲ……守嶺家のヤツラを捕エ、必ず殺ス……モウ封印サレルのはゴメンダ……」

 ――かみみね家?

 やはり鋭次郎には、聞き覚えのない家名だった。その『かみみね家』が、さっきから男が口にしている『一族』ということなのだろうか。

「ヤツラの唯一の手ガカリハ、オマエだ……ダカラワレハ、息を潜めて、オマエガ目ザメルノヲ待った……二ヶ月モ人間を食うのを我慢シてな! トコロガ……」

 大男は急に笑いだした。

「目が醒メタ御前ハ『全然知ラナイ』と、言ウジャナイカ!」

 腹を抱えて笑う。笑いの衝動は、なかなか収まらず、しばらくケラケラと笑い続ける。

「ダガ……ソレもドウヤラ、本当ラシい……うううううう」

 大男は急に笑うのを止めると、今度は泣き始めた。

「ヒック。訳がワカラン……だったら、お前のコトハもう見逃せば良イのカモしれン。ダガな桂木、今のワレは、まだ、ひ弱デ……」

 嗚咽のために喋れなくなり、咳き込みながら荒い息をつく。

「……オマエガ怖い、警察が怖い、銃が怖いンダ……怖いヨウ、コワイヨウ……」

 巨大な背中を震わせて、オイオイ泣き続ける。

「だってオ前は、我を追うダロウ? 小高い山ノ頂きから三百年ぶりにやっと出てきた我を、警察官のオ前は、拳銃を持って追いかけ回すんダロウ? ワレガお前を撃ったカラ! ワレが鬼ダカラ! 捕まえて、ひどい目に遭わせるんダロウ?」

 大男は泣き喚いた。感情の起伏が異常なほど激しい。

 巨体に似つかわしくない、ひどく怯えた態度に底知れぬ狂気を感じ、鋭次郎は全身に鳥肌が立った。

「何故オ前はアノ時、人間に取り憑いたばかりの我を見タ? 何故オ前はアノ時、死ななかっタ? 何故オ前はしつこく生きていて、我を覚えていタ? あの卑しい『一族』でもナイくせに! せめて、コノ顔ヲ覚えていなけれバ良かったのに……何故ダ、桂木!?」

 男はぴたりと泣き止んだ。

「……答えハ……」

 うふふふふふ、と声に出して笑う。

「我に喰ワレル運命ダカラさ!」

 男の口が、耳元まで裂けた。

「オ前は、我が喰ウ、三百年ブリノ、人肉ダ……」

 笑った口元から、泡の混じった涎がボタボタと落ちる。

「目覚めてカラ、今日マデ二ヶ月も、我慢シタ……ダガモウ、我慢デキン。ガマンの必要もナクナッタ」

 鬼の巨大な顔が、耐え難い口臭とともに鋭次郎に近づいて来る。

「桂木……オマエハ、ナンテ、美味ソウナンダ……」

 耳まで裂けた口から、蛇のように細長い二股の舌が現れ、鋭次郎の頬をぺろりと舐め上げる。

「ひ……」

「うっひヒ……大丈夫、スグニハ殺サナイ。ナルベク苦シミが続くヨウニ、生きたママ、ユックリ喰ってヤルゾ……この『號羅童子』(ごうらどうじ)様に喰われる光栄を噛みしめるノダ……」
 
 ――ごうらどうじ? こいつの名前か???

 鋭次郎は恐怖のあまり声を上げることも出来ず、ただベッドの上を後退った。

「逃ゲテモ無駄ダ。伝説ノ大羅刹ニ、喰ワレル名誉ヲ、噛み締メテ死ネ」

「……!」

 ――鬼に喰われて死ぬ? 嘘だろ!?

 鋭次郎は心の中で叫んだ。

 ひと月前に拳銃で撃たれた時の、どこか安らいだような気持ちとは、全く正反対の感情だった。

 巨大な鬼は前かがみになり、舌なめずりをしながら、鋭次郎を見つめている。

 ふと、あの女の子の顔が浮かんだ。色白で琥珀色の目をした、凛とした少女の顔――。

 すると、パニックを起こしかけていた鋭次郎の心が、少しずつ落ち着いてきた。

 鬼に気づかれないよう、ゆっくりと目だけを動かして、病室内を観察する。自分しか入院していない四人部屋。武器になるようなものは特に見当たらない。

 ――となると……。

 警察官である以上、鋭次郎にも多少の武道の心得がある。しかし、自分の柔道や空手が、コンクリートの壁を素手で砕くような化け物に通用するとはとても思えなかった。

 それにしても、これだけ激しい物音を立てているのに、何故誰もこの部屋を見に来ないのだろうか。宿直の医師や看護師、他の病室の患者たちは、何も不審に感じないのだろうか?

 ――いや、ここに誰かが来たとしても、犠牲者が増えるだけかもしれない。むしろ、来ない方がいい。

 ならば。

 ――逃げるが、勝ちだ。

 取りあえずは病院を抜け出して、警察に通報するのだ。

 だが、病室の出口に目をやり、ベッドからの跳躍に向けて力を溜めた鋭次郎の足を、すかさず鬼が押さえつけた。

「ニゲラレル訳、無イだろ?」

 にやあっと笑い、コンクリート塊を持っていない方の大きな手で鋭次郎の左足首を握り、ゆっくりと締め付ける。

「見アゲタ精神力ダガ……コッチハ心が読めるンダ。マ、ナンデモお見通シッテ訳には、イカナイガ……!」

 足首を握る手に、少しずつ力を加える。

「うわあああああっ」

「痛いダロウ? カワイソウに。人間のカラダは脆いカラナア……うフフ、逃げられナイヨウニ、足は潰しトイてヤルよ……」 

 鬼に握られている足首が、ギシギシと異音を発している。

「ああっ! あああああああああっ」

「イイ声ジャナイカ、桂木。我はナ、人間が泣き叫ぶ声が、スキでスキでタマラナイんダヨ」

 涎をだらだらと垂らしながら、うっとりと微笑む。

「トコロデ、サッキカラお前が時々思い出シテいル、ソノ小さいガキは、一体誰ダ?」

「うううっ……!」

 最早、鬼の問いかけなど鋭次郎には聞こえていなかった。想像を絶する痛みに、表情は歪み、両目から止め処なく涙が零れ落ちてくる。

「ウひひ……答えるドコロジャナイか。まあイイ。ドウセお前の頭を喰えば、記憶もモラエル。便利ダロ?」

 鬼は長い舌を伸ばし、鋭次郎の涙を音を立ててすすると、ニンマリと笑った。

「甘露なり。人間ドモの精気を吸い、肉を喰らエバ喰らうホド、ワレの完全ナル復活に近づいてイク……。ではイヨイヨ、喰らうとスルか」

 鬼が大口を開け、鋭次郎の頭に喰いつこうとした、まさにその時。

 軽やかなノックの音がして、病室のスライドドアが開いた。

「夜分、恐れ入ります」

 長身の女性が病室に入って来て、お辞儀をした。黒のロングコートに、つばの大きな黒い帽子を被っている。手足の長いモデル体型で、壁材が散乱した病室にはいかにも不似合いな美人だった。

 鋭次郎は、その後ろから現れた白いコートの少女に強く目を吸い寄せられた。長い黒髪、琥珀色の瞳。コートの袖口から覗いた右手には包帯を巻いている。服装は違うが、少女は確かに、あの看護師だった。

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今回はちょっと長かったですね。(;'∀')
読んで頂き、ありがとうございました!

次回はいよいよ?バトルシーンです(たぶん)
お楽しみに!!

あ・・・感想を呟いて頂けると嬉しいです!(誉められて伸びます)


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