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誰から手渡されるか/古着はジェンダーレス

大好きな古着屋さんが近所にあって、ときどき遊びに行く。Instagramも毎日チェックしている。しょっちゅう買うわけではないけれど、お店の人とおしゃべりできるのがうれしくて、用がなくてもついつい寄ってしまう。息子とも行く。

顔なじみのお店があって、ゆっくりちょっとずつ増えていくのもあって、このまちで相変わらず楽しく暮らせているんだろうと思う。

そういえば関西で大学生だった頃も、古着屋さんによく通っていたなーと思い出し、さっき探してみたら、そういうお店の一つがまだ営業していて、びっくりした。もう20年以上続いているということだ。すごいなぁ。だって続けていくってほんとうに大変なことだと思うから。

近所の古着屋さんのほうは、ちょうど1周年記念で、セールをするということなので、初日にいそいそと出かけた。店主さんのイチ押しの中から、わたしも一目で気に入った服を買って帰った。

帰り際には、いつものように、「いっぱい着てくださいね!」と笑顔で見送ってくださる。次回遊びに行ったときは、それをどのアイテムと合わせているか、周りからどんな評判か、どんなにお気に入りか、などをおしゃべりする。

アメリカやヨーロッパなどに店主さんが買い付けに行って、やってきた古着たち。旅の道中がInstagramでリアルタイムで届けられ、まるで一緒に旅をしたような気持ちになる。帰ってきてからは旅の土産話を聞きながら、いろんな人の手を経て、たくさんの時間を経て、ここにある古着に思いをはせる。そしてそれがわたしの日常にやってきて、外出を楽しくしてくれるパートナーになっていく。その不思議。古着だからこその、一点一点、唯一無二の服との出会いが楽しいということと、巡り合わせと。

こういうの、わたしも売り手、渡し手として経験したことがあったな〜と思ったら、ああ、一箱古本市だ。


このまちに暮らすようになってから、そしてまた昨年開業して自分の仕事をはじめてみて、結局のところ、「だれからどのように手渡されるか」に尽きる、と強く思うようになった。

生身の人間が仲介してくれることで垣間見える、新しい世界の景色。
橋をかけてもらうことでちょっと渡れる、未知の領域。

見慣れた景色が、知っているつもりだった物事が一変して、自分にとって特別なものになり、自分を喜ばせるものになり、生かすものになる。
この世界と自分とのつながりを感じながら。それを手渡してくれる人と、わたしとの関係性、心の交流、つながりを感じながら。

全部に対しては難しいけれど、特に日々の衣・食・住という、生きる上での根本にかかわるところについては、「だれからどのように手渡されるか」「わたしからまた循環させてゆけるか」を大切にしながら、営んでいきたい。できるだけ注意深くありたい。そういう気持ちが日増しに強くなっている。

また、そのような営みの中では、「対象」を手に入れるだけではなく、受け渡し行為の途上で、「豊かな副産物」がいつの間にか懐に入っていたりもする。換金できないし、懐から出して見てみることもなかなかできない。幻の鳥のような温もりのあるその副産物は、とても命が長い。懐に入れているだけで、これから先もずっと、わたしを芯から温めてくれるだろう。


古着屋さんとの出会いから思ったことがもう一つある。


このお店には、どんな年代の、どんな体型や顔立ちの人にも必ず似合う服が揃っているのだ。店主さんの目利きぶりにあらためて感服する。

ある年代、ある地域では、ある特定の年代やステイタスの女性の服として作られて売られていたもの。それが、時間の波に洗われて、場所を超えて、いろんな人に着られているうちに、境目が溶けていくからなのかもしれない。

こちらの動画の82分ごろから話している、「男性のスカート」のことを思うと、たぶんこのお店で売られている古着は、性別の境界もなくなっている。


XS・S・M・L・XLなどのサイズの「規格」も溶けていってしまうから、あとはもう自分のこの体に合うか、好みかどうかだけ。

その時代のその地域の便宜的な規格に自分を合わせるのでもないし、「誰向け」と言われることもなくて、ただ自分がかわいい、好き、ときめく、楽しい、うれしい、着心地がいいと感じるものを着る。

「誰でも着たいものを楽しく着たらいいよね」とは思っていたのだけれど、この動画を録った時点では、それがどのようなファッションなのか、スタイルなのか、具体的に「これ」と表現できなかった。

わたしなりの経緯から、ふと「こういうことかな」という答えが一つ出たような気がしたので、ここに記録しておく。