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男の子のお母さん

過去に書いたものより。2016年12月。

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保護者会に行って、どっと疲れた。


先生が話してることが全部、一体なんの価値観に基づいてのことなのか、よくわからないが、とにかく聞いていると、「子どもたちの、ここはできているけれど、ここはできていない」という話ばかりしている。「全部ちゃんとしなきゃいけない」と、細かく詰められる感じがしてきて、呼吸するのが苦しくなってしまった。
これは、「たまには学校行きたくない」と息子が言うのもわかる。

会の中では、親が子どもの「できないところ」を言って"楽しい雰囲気"にしようとしていたり、そもそも「親がこどもを評価する」ような話をする時間帯もあって、聞いていて辛い。先生がそういう質問の仕方をするから、より助長されるんじゃないのか。

そのできてないところにしても、本当にできてないと困ることなのか、今絶対にできないといけないことなのか、それができていないとどんな大変なことになるのか、という根本的、具体的な話はそこにはない。

どれも本当に些細なことだ。
例えば、「字が汚い」「計算が遅い」「決まった時間に寝れない」「ゲームの時間が守れない」とか...。

本当はどの親も、自分の子どもをとても可愛がっている。でも、公の場に来ると途端に、「愚息」「愚娘」扱いになる。そういう「ネタ」を「お約束で言う」みたいなのも、わたしにはよくわからない。もしかしたらその親の人も本当に困っていることなのかもしれないけど。辛いのは、本当に困っているのか、お約束なのか、また別の何かなのか、よくわからないから。

でもこれは全部わたしも無意識にやってきたことだ。だから聞いていて辛いのだ。知らず知らず、「男の子のお母さん」を演じている自分に気づく。わたしの中での「男の子のお母さん」は、大雑把で、「もーあんたっていつもほんとこういうところがだらしないわねえ(しょうがないわねぇ、ダメねぇ)」と愚痴らなきゃいけない感じになっている。「お母さんはガミガミ怒鳴り、こどもは全然きいてない」または「こどもが何か無謀な要求を出して、"あんたはわがままだ"とお母さんは怒る」みたいなのが、お母さんと息子の関係......。

あれ、どうしてそう思ってるんだろう?
そのイメージはどこから来たんだろう?

実際はわたしも息子も大雑把ではないし、どちらかというと繊細で感情が多くて、でも言葉の力を信じていて、自分を表現しようと一生懸命な人間だと思う。わたしは息子の話を聴こうとしているし、息子も懸命に伝えようとしている。聴こうともしている。


できることとしては、自分が演じるのはやめる。

どんな環境にいても自分としている。
それが実現できない、安心安全のない場では、あえて表現せず自分を守る。


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2019年8月。上記の記事を書いてから3年後、このしんどい感じを端的に説明してくれる本に出会った。

タイトルにやや躊躇してしまうかもしれないが、中身は素晴らしい。これまでないことにされてきたこと、誰も納得いく説明をしてこなかったことを、田房さん自身の七転八倒の体験から、理知的に客観的に論じてくれている。読んでいるうちに癒えていく傷もある。

信頼できる仲間と読書会をひらくのもおすすめだ。
先日、カウンセラーの仕事をしている友人がひらいてくれた、この本の読書会に参加して、とてもよかった。テーマが多岐にわたっているので、集まる人によって、注目する箇所が全く異なり、視点の広がりも解釈の深まりも期待できる。わたしは、ほとんどお祓いをしてもらったような気持ちになって帰途についた。

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途中まで読んで積んである状態だが、こちらもおすすめしたい。

前世代から受け継いできたものは、自分の世代で手放していきたい。