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感受性について

今日から日記を書く。できる範囲だけど。
本当は、今はもう4月1日だから、昨日のことを振り返っている形になっているが、細かいことは気にしないで欲しい。

まず、日記を書こうと思った経緯から説明したいと思う。


一月前、私は恋人に振られた。原因は様々思いつきはするが、
きっかけとしては、まあ、その恋人に振られたということと、そこから思い当たる悪いところを直そうという至極単純な考えではあった。


様々、考えを巡らせている中で気づいた1つのこととして、
自分の「感受性」の部分が酷く欠落していることに私は気がついた。
そこで、感受性の部分をどうこうしようと思い日記を書こうと思っている。

感受性というのは、ある種思考の筋トレのようなものを、自ら気を使って、暮らしの中で設けなければ、途端に落ち込んでしまうもののようらしい。

社会人になってからは私は、目まぐるしい日々の情報を、情報として処理するということで精一杯で、
学生の時にできていた思考の筋トレは、気づくとしなくなっていた。

音楽を聴いても、耳心地の良いものはわかるけれど、明確にこの音楽の何が良いというのが説明がつきずらくなっていた。
自分の気持ちも、常に仕事に目を向けることであえて把握しないようにしていたところもあったように思う。

自分の気持ちを常に把握する作業というのは、非常に筋トレにもなるが、かなり面倒で煩わしい作業でもあったりする。
しかし、その作業を少しでも怠ると途端にここまで、自分がよくわからなくなるというのは、思ってもいなかった。今までの蓄積がなくなることはないと勝手に思っていた。
そんなことはなく、あっという間に自分を見失った。

恋人に振られたという、強い衝撃で自己内省をしなければいけないと思い始めて、やっと音楽に感動できるようになったし、本当に久しぶりに海にも行った。
久しぶりに、自然と呼吸ができている感覚になれた。うれしかった。


感受性があることの良さは、
1つの情報から「多くの情報」を得られることだと私は考えている。

この場合の「情報」は、例えば海に行ったとして、そこに海があるということは不変的な事実なのだけれど、感受性があるなしで、海から得られる情報の幅が変わってくることだと思っている。

一昨日、昨日と二日連続で私は海に行ったのだが、海に行った時間も、海の雰囲気も異なり、当たり前なのだがそれぞれの海の顔が全然違かった。


一昨日の海は、風もなく、本当に静かで行った時間は夕方で、夕日に照らされた水面は、ピンクから水色の間の不思議な色にキラキラと反射していた。
初めて会社の同期とプライベートで遊びに行って、海に一緒に行った。
一昨日見た海は、あまりにも綺麗で、正直仕事を辞めたくなった。
それを同期に言ったら、「わかります」と言ってくれた。
すごく穏やかで静かな海だった。職場では話せないこと、今までどんな生き方をしてきたのか、同期と海を散歩しながらたくさん話した。

2024.3.30


昨日の海は、昼間に行った。風が強くて大きな波が海岸に押し寄せていた。海岸に、押し寄せてくる波を、赤いTシャツを着た女の子が弟と手をつなぎながら、飛び越えていた。子供の純粋性は時に暴力的だけど、純粋な生き物はやはり美しいなと思いながら眺めていた。


昨日の海は、実は元交際相手と行っていた。端的に言うと、まぁ、いろいろあったのだが、寄りを戻すことができたのだ。押し寄せてくる大きな波を見ながら私は様々なことを考えていた。


この選択が、本当に良かったのか。また、お互いを信じあっていいのだろうか。この選択が、自分にとって良いのか。
あれだけ、振られたときは傷ついて、こんな日記を書くことに至るくらい元交際相手のことを考えていたのに。
いざ、寄りを戻すことになると、どんな理由であれど一度裏切られた人のことを信じるのにはとても勇気がいる。
そんなことを考えていると、彼が、海岸の砂を指で掘って、砂の中に自分の指を入れた。
「あ、あったかい。砂の中ってあったかいんだ。」
ふざけているわけでもなく、あまりにも真剣な表情で彼がそんなことを言うもんだから、私は気が抜けて大笑いしてしまった。

この人はバカだ。私はこの人を憎めないし、忘れられないだろうと、同時に思った。

2024.3.31

こんな感じだ。
少し恥ずかしくて勇気がいるけれど、赤裸々にこれからは自分の感情のことを文章にして、インターネットの海に流そうと思っている。

感受性の部分を豊かにしたいのは、
前述した、芸術の類をたしなめるようになって、自分が好きになりたいとか、そういうことではなくて、
感受性がないと、日常に落ちている些細な出来事をキャッチできないと本当に思うからだ。
働きながら、感受性を豊かにするのは本当に難しい。むしろ、社会に馴染むというのはある種、感受性を殺し、理性に従うことで守ることだと思う。

心が死んでゆくのをじっと待っているわけにもいかないので、私は日々ここで筋トレをするのだ!

あとは、人の些細な感情の機微に敏感になれることで、
なりえる優しさの在り方もあるなと最近気づいたのもある。

以前、私が投稿した『優しさとはなにか』で
「優しさとは根源的には余裕があるということ」と私は謳っていたのだけれど、
それは、本当にそうで、余裕がなければ感受性の維持も難しいから、根源的にはそこはぶらせないのだが、
アプローチの1つの在り方として、私が目指したい形の優しさは人の感情の機微にまで気遣える優しさで、それは感受性が付きまとうものだと思ったのだ。


この投稿への新たな、別の形でのアンサーとなるが、感受性が豊かになることでの優しさの形もあるのではないかと思う。
(話がそれた)

まぁ、そんなこんなで、
心を守る為に静かに死んでいくよりは、日々の感動を得る為に、
日常の様々なことに嫌となるほど、敏感になりながら、気持ち悪いと吐き気を催しながらでも、そうやって苦しんで生きていきたいと思うのです。

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