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小説「ある定年」⑱

 第18話、
 庭の片隅の柿の老木に、たわわに果実が実っている。小粒だが甘柿だ。明日にも熟して食べ頃になるだろうと思うと、ヒヨドリがやってきて必ず先を越される。
「じゃあ、私は会社に行くから。分かった?2、3個でもいいから取っておいてね」
 妻の千香が、ソファにいる江上の耳の傍で声を掛けた。
「うん、うん」
 彼は両耳のイヤホンをつけたまま、生返事した。テキストに目を戻し、また英文を追い始めた。
 退職後、彼は英会話の独習を始めた。NHKのラジオ放送で基礎英語から中級向けのビジネス英語まで4番組計1時間を録音し、毎日、朝昼晩の食後、デジタルオーディオプレーヤーを使って練習を繰り返している。わざわざ録音しなくても、スマホで学べるようだが、面倒で先端機器を使いこなせない。これも老化現象に違いない。
 別に英語を使う目的があるだけではない。退職後の時間つぶしが主目的で、音読はボケ防止に効果があるとの情報に接し、始めたに過ぎない。TOEFL900点以上の娘の奈々子によると「安くて手軽で、駅前留学より効果抜群」らしいが、上達するかどうかは動機に比例するから、期待薄と割り切っている。
 朝7時前起床、夜11時就寝の生活パターンは退職前を踏襲している。毎日が日曜日になったとはいえ、パート仕事に行く妻の手前、自堕落な生活に陥るわけにはいかない、と彼は言い聞かせている。
 社有スマホ、パソコンを返上して以降、ピタリと情報が途絶えた。世話になった仕事関係者には私用スマホの電話番号、メールアドレスを知らせたが、連絡は皆無だ。仕事のルーティーンだった市役所回りもなくなり、雑談時間もなくなった。会話といえば妻がメーンだが、37年も連れ添えば毎日の話題も欠如する。雑談を楽しむ千香と、結論を急ぐ江上はしばしば衝突し、差し障りのない天気と体調の話にも嫌気がさし、お互い途中で口を噤むこともしばしばだ。
 週1回、図書館通いも日課となった。好きな歴史小説を中心に借りて、自宅の居間のソファで寝ころびながら読んでいる。唯、独り、静かで快適で読書に夢中になり過ぎて、長時間の不自然な姿勢がたたり、首筋を痛めたのには弱った。
 ある日、江上は図書館の駐車場で、在職時、よく顔を出していた外郭団体の責任者を思い出した。退職後、用もないのに連絡するのは気が引けたが、人恋しさに雑談したい情動が勝った。スマホで電話したが、呼び出し音が空しく響くだけで通じない。再度、掛け直しても相手が出ることはなかった。
(辞めちまうと、こんなものか)
 彼は正直、へこんだ。
 後日、その責任者から見知らぬ電話番号のため応答しなかった、と連絡があった。江上が連絡先変更を知らせていなかっただけだが、退職後、物事を悪い方向に考えがちなのを知って呆れた。
 朝の英会話練習を終え、江上はいつものソファーで読み止しの小説を読み始めた。すると、久しぶりにスマホの呼び出し音が彼の無聊を慰めるように鳴った。元同僚の山口からだった。在職中は毎日のように情報交換していたが、退職後、2週間が経ち、初めてだった。
「どうした、元気だった?」
「やあ、しばらく。元気だったよ。そっちは」
「やることは同じだからさ、変わりはないよ。でも、来たばかりで土地勘がないからさ、取材先一つ行くにも面倒で」
 山口は社員のため、支社閉鎖に伴い埼玉支社に異動となった。遊軍として元気に働いているようだった。
「何度か、連絡しようとスマホを手にしたんだけど、折角、65歳定年でのんびりしているのに悪いと思って」
「そんなことはないよ、暇にしているんだから。こっちこそ、新しい職場で忙しいと思ってさ」
 職場を離れ、お互いが相手の立場に配慮することで自然と疎遠に傾く。山口にしても本音で江上の65歳定年後の穏やかな人生を願っているのだろうし、自分が継続雇用で身分保障される一方、雇用を打ち切られ、再就職の目途が立たない江上への遠慮もある。
 江上にしても新しい職場で忙しい山口の邪魔はできないと考えているし、無職の暇つぶしと受け取られるのは癪に障る。
 無論、仕事絡みで連絡する必然性がなくなったのが要因で、仕事上の男の付き合いの宿命だ。江上も日栃、歌麿調査の市民団体を辞めた経験から痛感している。
「地域おこし隊員の件は残念だったね。1次は受かったのに」
「しょうがないな、やっぱり65歳の高齢者なんだから、採用しないよ。でも1次だけでもパスしたのは、少なからず自信にはなっているんだ」
「それは、そう思うよ。実績は認められたわけだから」
 自分と同じ評価に、江上は安堵した。
「今回の結果をじっくり考えようと思うんだ。なんかヒントがあるような気がして」
「まちおこしにこだわるの?」
「うん、まあ。っていうか、65歳定年だろ、働けるのもそう長くはないだろうし、完全燃焼っていうか、やりたいことをやんなくちゃとは思っているんだ」
「そうだよな。体壊したら元も子もないし。金だけ欲しいなら、コンビニでもなんでも日雇いのバイトすればいいんだからな」
「それさえ、65歳定年後の高齢者は難しいんじゃない?」
「そうかな、それ冗談だろ」
「なら、いいけどさ」
 つくづく日新での10年弱の記者活動が派遣社員ながら適職で、在宅勤務で通勤もなく、自己管理できる理想的な仕事だったと江上は思い返した。
「じゃあ、また、連絡するから。今度は酒飲もう」
 山口の気遣いが江上の胸を潤した。
 昼食は前日の残りの総菜で済ませ、休憩後、仕事場をはじめ倉庫などの整理を始めた。不要となった資料が本棚に山積みとなり、倉庫の中も不用品が押し込められ、足の踏み場もないほどだった。時間はある。既に高齢者の仲間入りで、終活と割り切った。
 午後5時過ぎ、妻の千香が帰宅した。キッチンから、買い求めた食料品を出し入れする音がする。
「また行くの。気を付けて。暗くなる前に帰って、危ないから」
「分かってる、大丈夫だから」
 江上は玄関でウオーキングシューズを履き、玄関を出た。退職後、ウーキングも始めた。自宅前に渡良瀬川の堤防が伸び、絶好の散歩コースになっている。堤防の階段を上り、真っすぐ西へ葉鹿橋の方に進んだ。自宅まで折り返し40分程を歩くことにしている。
 人は習慣で動く。同じ時間帯を毎日、歩くので、顔見知りが増えた。擦れ違い、挨拶するのが楽しみになった。ただ、最近どうも持続力がなくなった気がする。
 今日は折り返しの途中、柴犬2匹を連れた小太りの中年男性と会った。江上が、
「柴犬ですね、2匹連れて喧嘩しませんか」
 と、尋ねると、
「たまにね。柴は気が強えからね」
 と、その小太りの男性は頷いた。
 江上が屈みこむと、1匹の柴犬がじゃれついてきた。
「それは人好きでさ。犬好きな人間は分かるんだな」
 小太りの男は目尻に皺を寄せ、遠ざかっていった。
 夕日が傾き、川面を照らし始めた。地平線に沈むのは間もなくだ。
(やり残したことはなんだろう)
 江上は陽光のまぶしさに目を細めた。
                        第19話に続く。

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