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ハラスメントはハラスメント

昨今、様々なハラスメントが定義づけられて、日々至る所でハラスメント被害者が産まれ、それに比例して、もちろんハラスメント加害者が産まれている。

ハラスメント自体が細分化されていることにより、人々が感じる”不快感”はほとんどが「〇〇ハラスメント」という名がつけられており、誰しもが些細な事でハラスメント被害者やハラスメント加害者になりえるのだ。

ちなみにこのコラムは何かの媒体に載せるような余所行きのコラムではなく、僕が自由に勝手気ままに書き綴れるコラムなので、何にも縛られず本音を書くつもりでいる。
つまり、ここから先の本題に入った際の文章は「見る人が見ればハラスメント」になりえる文章になるかもしれない。なので感情に敏感な人や、心が繊細な人、ハラスメント問題を深刻に捉え、斜めな意見を好まない人はあまり読まない方が賢明かもしれない。

さあこれだけ前置きをしたのだから、ここから先、読み進めるのは貴方の判断で、避けられる事象だったはず。なのでどんな偏見があろうと寛大な心で見ていただきたい。

それでは本題に入ろう。
何でもかんでもハラスメントとして訴えることが出来る昨今、本来のハラスメント被害者もいるとは思うが、エセハラスメント被害者が増えているのも間違いないだろう。先述したが「不快感」=「ハラスメント」という認識が広まってしまった為、自分が「不快」に感じた時点で、どんな理由があろうとも「ハラスメント」と定義して相手を加害者にしてしまう輩が一定数いるのだ。これは決して大袈裟な話ではなく、”何でもかんでもハラスメントにしてしまうハラスメント”、通称「ハラスメントハラスメント」という言葉があるように、実際に存在している問題なのだ。

なぜこの話を僕がしたかったのかというと、僕は「ハラスメント加害者」になったことがあるからだ。

僕は作家業の他に、劇団の主宰をやっている。劇団における僕の主な仕事は脚本と芝居の演出だ。
脚本に関しては、基本的に自分一人でやる作業なので、特に問題は無いのだが、”演出”という仕事は間違いなく「ハラスメント」になりやすい。
その理由として、演出というのは芝居を良くするために、「この芝居で良い」と思っている役者の考えを真っ向から否定する必要があるからだ。もちろん劇団の色や脚本家の好みなどによって芝居の仕方や演技方法は異なるので一概にそうだとは言えないが、基本的にはそんな感じだ。
もちろん「否定」という言葉を使うとかなり強い表現になってしまうので、嫌悪感を抱く人もいるかもしれないが、間違った芝居や間違った表現を「肯定」してしまっては芝居自体が良くないものになってしまう可能性がある。さらに良くない芝居をお客さんに披露した日には「つまらない芝居」の全責任が演出家に襲い掛かってくるのだ。そうならない為にも間違った演技やお門違いな芝居をしている役者を真っ向から否定しなければならないのだ。

ちなみに僕の基本スタンスとして、役者が持ってきた芝居を最初から否定することは無い。もちろん台本の流れから逸脱していたり、明らかにそぐわない場合は違う演技プランに変更してもらうが、少しでも可能性がある場合はその芝居でいいかどうか一度すべての流れを見てから判断するようにしている。ただ大概の演出家は自分の中に「理想の流れ」や「理想の芝居」が存在しているので、その芝居に当てはめようとする。だからちょっとでも違えば即否定になるのだが、僕の場合、そこまで芝居に精通しているわけでは無いので、僕の想像もつかない芝居を役者が披露する可能性もあるので、最後まで見るのだ。なので過去の公演で僕の想像を越えた芝居は何度もそのまま本番で披露している。

ではそんな僕がなぜ「ハラスメント加害者」になってしまうのか。

それは被害者だと思っている役者が明らかに「ハラスメント」をはき違えているからだ。
僕がどのような「ハラスメント加害者」になったのか。

公演が終わったある日、とある俳優が僕に「人格否定」をされたので芝居を辞めたいと言ってきたのだ。
僕はどんなことがあろうと「人格否定」をしないように努めてきた自負があった。なのでそんな僕が「人格否定」をしたということが衝撃で、一瞬パニックになってしまった。
ただ一方的に「俺は人格否定なんてしていない!」と言っても意味が無いので、まずはどんな「人格否定」をされたのか、その俳優に聞き取る必要があると思い、僕はいったいどんな否定をしてしまったのかその俳優に訊ねた。するとその俳優は自分が用意してきた「演技プラン」を真っ向から否定されたと言ってきたのだ。一生懸命考えたプランだったのに、他の役者がいる前で「違う」と否定され、演技の変更を余儀なくされたと。

僕に2つ目のパニックが襲い掛かってきた。

「一体この子は何を言っているのだろう・・・」

もちろん芝居に正解など無いが、明らかにそぐわない場合、その芝居自体を否定するのは当たり前。それが演出の仕事であり芝居の稽古だ。
その俳優はあまり話すことが得意ではないので、僕が気づかぬうちに「人格否定」をしている可能性はまだ拭えない。その役者がいったい何を話したいのか、もっと深堀する必要があると思い、僕は次の質問をした

檜山「もしかして俺はその時に、役者やめろとか、どんな育ち方したらそんな芝居になるんだとか、そういう事を言ったりした?」
俳優「そういうことは言われてません」
檜山「他に嫌だった事はある?人格否定だなと思ったこととか」
俳優「いえ。それが一番嫌でした」

この俳優は「芝居否定」を「人格否定」に変換してしまったのだ。
僕はひと安心した。

役者は承認欲求が強い人間が多く、いらないプライドを持っている若手が多い。なので芝居を否定されると自分の人生を否定されたように感じてしまい、何とかして相手をやっつけようと思ってしまうのだ。
ハッキリ言ってそんなことどうでもいい。
その俳優に「芝居否定」されたと言われても何とも思わない。実際に芝居を否定しているし、悪い事だなんて一ミリも思っていないからだ。

さらに今までの関係性や出来事などを振り返りもせずに、自分が傷つけられた、恥ずかしい思いをしたという身勝手な感情で攻撃をしてくる。完全に失望した。

時代なのか職業なのかわからないが、本当にこういう輩が多い。

最近SNSで「演出家によるハラスメント」騒動を良く見かけるが、そのうち何%が本当のハラスメントで何%がプライド戦争によるエセハラスメントなのだろうか。

間違った正義感や、過剰な規範意識を持った人間が増え、誰かを悪者にしないと気が済まない世の中になっている。そういった連中がこのようなエセハラスメントに油を注ぎ、冤罪だとしても炎上させてしまうのだ。

関係のない人間を巻き込んで騒動にした方が勝ち目があると思っている「被害者」がいるのも事実なので、「外野がとやかくいうな」という理論は成り立たないのだが、ハラスメントの加害者はもしかしたら冤罪かもしれないという意識を少しだけでも持っていてほしい。

もちろん大半のハラスメントは加害者が本当に加害者である。それは紛れもない事実で、多くの演出家がいまだに人格否定をしているような、前時代的な世界が演劇界だ。そんな世界を正そうとして運動をしている人が増えてきているが、間違った方向にいかないことを願っている。
人格否定と芝居否定が混同して、いつか芝居すらも否定できない世界になったら、誰も芝居なんて見ないだろうな。

難しい世の中だ。

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