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LLACの坐禅について考えてみた

おはようございます。🐤

坐禅体験に行ってきました。もちろん、LLACのファウンダーであるしゅうへいさんが唱える「LLACのガチホ=坐禅」の真意に迫るためです。

NFTガチホへの違和感

私はLLACの「猫のように生きる」というコンセプトと素敵なイラストが大好きだったものの、ガチホを求める文化には嫌悪感が強かったのです。

なぜ嫌悪感があったかというと、次のように考えに矛盾がわいてきて、それが自分の中で腑に落ちなかったからです。

  • NFTは誰でも二次流通市場で転売することができる

  • 転売でクリエイターに利益(ロイヤリティ)が生まれるのが特徴=転売はクリエイター側にとっても歓迎されることである

私は革新的で画期的なこれらの特徴でNFTが大好きだったのですが、LLACは転売してほしくない、ガチホしてほしいといいます。

まああくまで運営の希望であって、売ることを止めることはできないのだから、ホルダーの自由ではあります。しかし、「売った人はアドレスを記録して、次のALあげない」とか「売った人が作ったNFT作品は買わない」となると、これは「処罰」と言ってもいい、けっこう大きなデメリットです。

(もちろん運営側にも自由はあります。上の言い方では圧力を感じますが、「ガチホしてくれた人には特典があります」とか「ガチホしてくれる人の作品は買いたくなります」であれば、同じ意味でも受ける印象はかなり違います)

しかし一方で、全員が市場に売らなければ、売買はひとつも発生せずロイヤリティ収入もゼロになります。

つまり一定の売りは求められる。

そして、一番もやもやするのが抜けがけして売る人が利益を得られることで、しかもその抜けがけは計算に入っている。このことを、どう自分の気持ちに落としこめばいいですか? どうホルダーさんに説明すればいいですか?

だから「ガチホ推奨」は嫌いなんです。ああ、言っちゃった。

ガチホ=坐禅

そして新しい考えがでてきました。しゅうへいさんのガチホ=坐禅理論です。

初めて見た時はほんとうに意味がわからなかった、寝言だと思いました。(失礼m(_ _)m)シンプルに考えると、「市場への供給量を絞って価格を上げるため」しか思いつきません、それでいいじゃん? 別に悪いことじゃないのに。

もうひとつ、「警策(きょうさく)をいただく=肩を棒で打たれること」はお金をいただくことだと。

たぶんこの方は寝言をいうアカウントなんだ(ほんとに失礼m(_ _)m)、と思いながらも、「坐禅をしたこともないのに寝言と決めつけるのは良くないかも」という気持ちと、私の中に半分流れる京都人の血が坐禅への興味を増大させ、今日思い立って坐禅体験に行くことになりました。

坐禅体験談

京都の勝林寺というお寺で、お手軽坐禅体験ができたので行ってきました。他のお寺だと、おそらくですが参加費無料で朝の6時からとか、およそ観光客向けではなさそうな厳しそうなイメージだったので、1000円支払う必要はあってもこちらを選んだのです。

ついてみると、新築の綺麗なお堂に、座布団と半座布団がきれいに並べられています。

https://shourin-ji.org/zazen1/

参加者はおよそ25人程度だったと思います。半数くらいが経験者っぽい雰囲気、残りの半数が初心者だったように思います。どの方もお寺巡りが好きそうな、「金持ち」というふうでもなく「あくせく時間に追われている」「子どものしつけに苦労している」というようなせわしなさを感じさせない、落ち着いていて人生にゆとりのある人だなと感じました。

あなたには煩悩ないでしょう? 坐禅なんて必要ないのでは?
という人たちばかりだったというのがすごく興味深かったです。

坐禅には「曹洞宗」と「臨済宗」の大きく2つの様式があって、一般に知られているのは「曹洞宗」の方です。どういうことかというと、壁に向かって坐禅をし、その後ろを見回り役の僧侶が「警策」をもって見回り、少しでも動いたり気がそれたりすると、右の肩を「バチーン!」と肩を叩いて注意する、というイメージです。

一方私が今日体験した「臨済宗」の様式は、坐禅をする人が向かい合って座り、その前を見回り役の僧侶が「警策」を持って回ります。そして気が散ったり眠くなったりして「警策」を受けたい場合には坐禅者が手を合わせます。すると見回り役が「両肩」をパンパン、パンパンと叩いてくれます。その際は、坐禅者も見回り役もお互いに合掌します。つまり、坐禅がうまく最後までできるように励ますという意味合いがあるそうです。

そして、どの様式の坐禅でも、「呼吸」が大事になります。「ひとーつ」と数えながら、長く細く息を吐いて、静かに吸う。次に「ふたーつ」と数えながら同じように呼吸する、ことを繰り返して、十(とお)のつぎは一(ひとつ)に戻ります。それをひたすら繰り返します。

そして難しいのは「半眼」という目です。「目を見開くと現実世界が見える=いろんなものに惑わされる」「目を閉じると内面世界が見える=内にこもりすぎてしまう」、そのどちらにも偏らない理想的な視線が半眼というわけです。

これは精神論のようにも思えて、実はやってみてわかった利点があります。目を完全につぶってしまわないことで、頭がたれてしまうことや、体の傾き、ブレを防ぐことができます。また、目を半分閉じて視線を落とすことで、前や横の人の動きを気にならなくできます。

半眼(https://mjj.or.jp/)

一方、半眼は人によっては?一番寝やすい目だそうで、そもそも半眼は瞑想に通じるものがあって、修行僧たちが苦しい修行の合間のリフレッシュの意味があったんだろうとも言われています。

体の固い私にとっては、背を伸ばし姿勢を美しく保つことはとても苦痛でしたが、おそらく体の柔らかい人にとっては坐禅は比較的長時間保ちやすい姿勢であり、現実やスマホなどから離れた時空に身を置くことができる、心地よい時間になり得るのではないかと思いました。

勝林寺の坐禅は、初心者向けに丁寧にやり方を説明していただいた後、15分の坐禅を2セット行います。私は2本目の坐禅は終始姿勢を保つためにプルプルと震えていました。苦痛でしかありませんでした。もうやりません。やるとしたら半年ほどストレッチを頑張って、坐禅をらくに組めるようになってからにします。

NFTと坐禅

心のどこかで「坐禅やってみたけど、やっぱりぜんぜんNFTのガチホと関係ねーじゃねーか」と言いたかった部分がありました。しかし、実際にやってみて気づいたことが二つあります。

  1. 参加者はみな煩悩がなさそうだったこと

  2. 坐禅は修行というより、リフレッシュであること

ということで、意外にもNFTの坐禅とリアル坐禅との関係がありそうで、これは自分でも驚きでした。(しゅうへいさん寝言とか思ってごめんなさい、自分よりずっと考えられて発信されていることは理解しています、ほんとに反省です)

つまり、NFTの坐禅=0.001 ETHで配布されたNFTを売らないことができる人は、人生にゆとりがあり、カツカツではない人です。煩悩を消すために坐禅=ガチホするのではなくて、煩悩がある人はそもそも坐禅=ガチホに意義を感じないから参加しないのです。

では何のために坐禅する=NFTをガチホするかというと、同じ価値観を持った仲間との交流を楽しみ、自分の心をリフレッシュするためなのだと思います。

ただ、どんなNFTコレクションにもあてはまることではないことに注意してください。まず間違いなくLLACの唱える「ガチホ=坐禅」は広がらないと思いますが、万が一間違って一般に広まってしまったとすると、当然詐欺師はそこに目をつけます。詐欺師の運営が自分の保有するNFTを高値で売り抜けるには都合の良いことだからです。

だから私は、ここまで考えたうえで、あえて「ガチホとか坐禅とか勧められたら怪しいと思え」と広く注意喚起していきたいです。

ではLLACのマーケティングが詐欺師のそれとどう違うかというと、次のようなものです。

  • 活動計画と実際の行動に整合性はあるか

  • 運営が持ち逃げするメリットはあるか

  • 運営のウォレットや持ち分、動きは公開されているか

  • コントラクトは公開されているか

  • それらを監視できる人はいるか

LLACの場合は、初期ミントでは6 ETHほどしか収入がなく、その後の二次流通で稼ぐ計画です。持ち逃げするメリットはなく、計画にそったイベントや広報を実施し、コレクションの価値をあげる活動をしていることが確認できるから、私は詐欺ではないと判断しているわけです。また、多数の人が参加するプロジェクトは多数の監視にさらされているということでもあります。

また、そもそも「坐禅」というのは、0.001 ETHで配布された初期ミント組にのみあてはまることで、二次流通で購入した人はそんなことは考えないで、誰に何を言われても自分の判断で売買しないといけません。「売らないでね」という約束は初期ミントのものだけです。

クリエイターの本心

ここでひとつ重要なことを思い出します。

クリエイターさんは、自分の作品が認められ、愛されることに喜びを覚えるのだと思います。私はイラストは描けませんが文章を書くので、「自分の作品に対する思い」は同じと仮定すると、価格やロイヤリティー収入は「人の心を動かせたという実感」とか「認められ、愛されること」には及びません。

書いている今気づいたことです。これまで私は今までの常識と違って「NFTでは転売は自分にとってもクリエイターにとっても常に正義」だと考えていました。

しかし、ほんとうにそうでしょうか、よく考えたら違うのではないでしょうか。

私が仮に自分の作品を買ってくれた人が、作品の内容はそっちのけですぐに他の誰かに転売して「〇ETHも利益出た、わーい」と喜んでいたら、心のどこかで「あれ?この人私の作品はどうでもいいの?」とひっかかってしまうと思います。

例えて言えばビックリマンチョコのシールだけとって中身を捨てられたり、握手券だけとってCDは聞かずに捨てられたりするようなもので、商品開発者はやりきれない悲しみに包まれてしまうのです。

もちろん、そのような販売方法にも問題があります。しかし、一番の問題は買う側の信念や美意識、理想にあります。ゴシップ週刊誌は確実に「売れるから」が先にあり、作る人はそれを受けて記事を作るのです。

LLACの運営のやり方が違うと感じたのであれば、私たちにできることは、作品を手放して仲間たちからETHを取り上げることではなく、ALをもらわないことです。

「売ったら次はAL貰えないからそれでいいじゃん」というのも一つの考えですが、初期ミントのLLACを売った相手、つまりあなたにETHを与えてくれた人は「誰か知らない他人」ではなくて、高い確率であなたの味方であり仲間になり得る人であることに気づくべきです。

DeFiやBCGでは見えにくいですが、NFTではそれがすごくよく見えます。それをわかったうえで、最善の行動を心がけるべきだと私は思いました。

僕のことを夢想家だと言うかもしれないね
でも僕一人じゃないはず
いつかあなたもみんな仲間になって
そして世界はきっとひとつになるんだ

Imagine(和訳)

ちなみに私は坐禅のあと京都二郎に行き煩悩を爆発させています。

自分は体が固くて坐禅があわなかったこともあり、LLACを売ることをガマンするのは、坐禅よりもダイエットの方が説明しやすいと考えています。終わりが見えないことも似てる。

ということは、二郎をがまんできない私のLLACの運命は……(;^_^A

というわけで、何かの参考になりましたら嬉しいです。
それではまた、DeFi~(@^^)/~~~


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