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第1話 応援者(ハルの話)~ビットコイン物語

ビットコインは一夜にしてならず。

ビットコインを生み出したのはひとりの天才、サトシ・ナカモトです。

しかし、現在ではシステムの85%以上が他の技術者によって書き換えられていて、サトシが書いたコードはほとんど残っていません。

そもそもビットコインは技術者やプログラマーだけが作りあげたものではありません。革命家、商人、起業家、投資家、密売人、詐欺師、政治家、そしていろんな国のいろんな事情をもった人々に必要とされ、時代の大きなうねりに飲み込まれて揉まれながら、奇跡的にも成長を続けてきました。

この物語では、ビットコインに関わった人物にスポットをあてていきます。

ビットコインを語るときにサトシ・ナカモトの次にあげられる人物がハル・フィニーさんです。なぜならサトシ・ナカモトさんが最初にビットコインを送金したのがハル・フィニーさんだからです。

暗号大好き、ハル・フィニーさん

ハル・フィニーさんは1956年5月4日生まれ、1979年にカリフォルニア工科大学を卒業、マテル社というおもちゃメーカーのコンピュータゲーム部門に入社し、その後PGP社の立ち上げに加わります。

PGP社の社名になっている「PGP」とは「Pretty Good Privacy」、つまり「暗号を使ってプライバシーを守れるよ」というような技術のことです。

彼はとても暗号技術に詳しかったようです。Netscape社の暗号破りコンテストで勝利したり、RPoWというしくみを考えたり、そして匿名でメールを転送するソフトを作ったり。どれくらいすごいのかよくわかりませんが、とにかく暗号化技術の第一人者であったのです。

そんな彼は、サイファーパンクのメーリングリストに参加します。メーリングリストというのは今でいうSNSのコミュニティみたいなもので、「サイファーパンク」とは暗号技術で世界を変えてやろうという人たちやその活動のことです。

彼らが暗号技術に熱中していた1990年頃というのは、インターネットが普及し始めて間もない頃、まだウェブブラウザが発明される前でした。

サイファーパンクのメンバーは、情報が一瞬で世界中に伝わるインターネットという技術に夢中になりました。ごく普通の個人が新聞社や放送局と同じような力を手に入れることができる可能性が目の前に広げられたのです。

ハルさんは、そのような時代だからこそプライバシーは欠かせないものになると考えました。そして、情報の取り扱いの効率化に伴う利益や権力を国や大企業に集中させるのではなく、個人に力を与える方向に使いたいと思いました。

そしてハルさんやサイファーパンクのメンバーはインターネット技術を使った未来の金融システムにも夢を描いていました。つまり、デジタル送金を匿名で行うことです。

個人のクレジットカードの利用履歴や銀行の送金履歴が、すべて銀行に知られていること、つまりプライバシーがゼロであることがすごく嫌だと感じていたんですね。

ハルさんは「ユーザーがどこでお金を使ったか一切記録が残らず、銀行にわかるのは毎月の引き出し額だけ」というデジタル通貨を考えました。その名も「クラッシュ」(クリプト+キャッシュ)。

いかにもクラッシュしそうな名前だったことが原因なのか、そんな夢の通貨は実現しませんでした。

その後、ハルさんだけではなく、いろんな人がデジタル通貨を考えて、現れては消え、実験しては失敗ということを10年以上くりかえしました。

コミュニティ内での批判やダメ出しの応酬、欠点をあげて貶すことばかりの毎日にメンバーは疲れ、少しずつ無関心になり、やがてコミュニティの熱は冷めていきました。

2008年10月31日 ビットコイン白書の投稿

サイファーパンクの活動もめっきり減っていたある日のこと、謎の人物がコミュニティにひとつの文書を投稿しました。それがビットコイン白書、投稿したのはサトシ・ナカモトでした。

「私は、完全にピアツーピアで信頼できる第三者を必要としない新しい電子通貨システムの開発に取り組んでいます」

https://satoshi.nakamotoinstitute.org/emails/cryptography/1/

一部の現代人が見たら「パアァァッ✨✨🌞」と光り輝く伝説の文章ですが、当時のメンバーの反応はありませんでした。「またか…(やれやれ)」ってなものだったのでしょう。私たちがPancakeクローンのDEXを雨後のタケノコのように見ていたのと同じように。

しかし、ハルさんだけは違いました。なんせ自分のこれまで理想としてきた暗号技術をふんだんに使っていて、さらに暗号の世界では大御所のウェイ・ダイさんの論文の引用もあるし、PoWも使われているし、どストレートに好みのど真ん中だったのです。

さらに「ブロックチェーン」なる技術もそこには描かれていました、これは誰もが知らないまったく新しい技術だったのです。

白書の中に「ブロック」とか「チェーン状」という言葉はありましたが、「ブロックチェーン」という名称はまだ使われていませんでした。

ビットコイン白書に対する数少ない反応はおおむね懐疑的、というか否定的で、曰く「すぐにブロックサイズが大きくなって使い物にならない」「51%の悪意で使い物にならない」というものでしたが、ハルさんはそこはあまり大きな問題だとは考えませんでした。

「うまくいくかもしれないね、実際にコードを作ってみたらどう?」

と好意的なコメントをしたのはハルさん一人だったそうです。サトシは懐きました。数週間後にサトシはハルさんに改善案とプログラムのプロトタイプを送りつけます。

2009年1月3日 ビットコイン、二人きりで始動!

正確には、サトシはコミュニティにプログラムを送信したのですが、実際に使ってみたのがハルさんだけだったということです。なのでここからサトシとハルさんの2人だけでメールが進行します。

🐤 サトシ・ナカモトの正体はハル・フィニーさんだという説がありますが、仮にそうだったとすると、ビットコインが成功する確率が極めて低いこの時点から偽装のひとり芝居を始めていたことになります。芸が細かい!

なかなかうまく動かなかったビットコインのシステムですが、数回メールをやり取りしてやっとうまく動くと、ハルさんのPCに50 BTCが入りました。二人だけの世界で何のトランザクションがあったのかわかりませんが、とにかくハルさんのPCがたくさん計算をして、BTCを勝ち取ったのです。

もちろんこのBTCには世間的にはなんの価値もありませんでしたが、それでもハルさんは熱狂します。

しかし熱狂もつかの間「パソコンがうるさいし、熱い!😡」と息子さんから文句を言われたハルさんはしぶしぶビットコインシステムの電源をオフにします。

そして同じころ、ハルさんは体調の不良を感じていました。はっきりと話せなくなってきたし、大好きなジョギングもしんどくなってきました。

数多くの病院を巡ってようやくわかったのは、筋萎縮性側索硬化症(ALS)という、体中の筋肉が萎縮していく難病だということでした。

ハルさんは「もし自分がいなくなったらサトシの味方をしてくれる人がいなくなる」ことが気がかりでした。だから、最後にコミュニティに「ビットコインにはこんな好材料がある…」とこのシステムに好意的なメッセージを投稿し、コミュニティから離れます。

応援者がいなくなったサトシとビットコインの運命やいかに…

その後…

しかし考えてみると、ハルさんがいなかったらサトシのモチベーションはどうなっていたでしょうか。

きっとサトシはハル・フィニーやウェイ・ダイ、アダム・バックといった暗号の世界の先輩の論文を読んでいたから、彼らがいるコミュニティを狙ってビットコイン白書を投稿したんだと思います。

そのうち、アダム・バックさんとウェイ・ダイさんには最初にメールを送るものの華麗にスルーされ、最後の頼みの綱がハル・フィニーさんだったのかもしれません。

ハルさんはサトシにとってはほんとうに貴重で偉大な応援者でありました。

その後、ハルさんは病床の中でも2年ほど仕事を続けましたが、2011年には勤めていたPGP社を退職し、かねてから興味をもっていた「冷凍保存」で自分と家族の遺体を冷凍庫に保存する契約金を支払っています。

物理学者のホーキング博士がそうであったように、体の筋肉が衰える一方、脳の働きは健全だったようで、目線でマウスを操作したりでなんとかかんとか仕事もできたし、メールでコミュニケーションがとれる時期もあったようです。

ハルさんが2013年頃にコミュニティに再びメッセージを投稿したとき、自分の体は全く動きませんでしたが、ビットコインを取り巻く状況は好転していました。利用者は増え、ちゃんと資産としての価値もついていたので、自分の治療費にビットコインを活用することもできました。

しかしそれからわずか1年ほどで、ハルさんはこの世を去りました。

いつか、ずっと医療が発達した未来に冷凍保存から目を覚まし、家族と再び暮らす望みを残して。

ビットコイン物語…つづく

次回予告「ア…ども…(オタク?)仲間現る!」

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