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孤独と孤立

真に孤独でないのに、私は時折孤独を感じる。

最近は特に恵まれていて、学校の友人がおり、元同じ学校の友人もおり、親友もおり、両親もいる。SNSも含めれば、毎日、誰かとコミュニケーションを取らない日はない。

しかし、孤独は癒えず、私の気分変調に合わせて私を笑いに来る。

私は恵まれている。しかし、少し離れた席の、学校の友人に話しかけることをためらう。元同じ学校の友人誰一人にLINEを送ることができない。親友とも、半年は会っていない。両親は唯一毎日話すが、SNSでも、反応のない日はある。


1歩踏み出せば、少し手を伸ばせば、そこに光があるだろうに、私の体の、なんと重いことだろうか。



孤独と孤立はその意味が違うらしい。

孤立は、完全な隔離状態だ。冬の山奥、誰以内山小屋の中で、餓死しそうでも、凍死しそうでも、誰にも助けを求められない。そんな物理的に一人の状態が孤立だ。

一方、孤独は、精神に依存しがちだ。同年代のクラスメートの居る中で、声の裏返るのが怖いか、話が続かない可能性が怖いか、はたまた、かつて他のクラスメートと一悶着あった経験が怖いか。…教室で花瓶の水を変えるあの子は、今カバンに突っ伏して帰りの会を待っているあの子は、自分と同じ心境で、話せば居心地良いかもしれないのに、

一歩が、踏み出せない。

それが孤独だ。そして、3人は平行線のまま、各自の孤独を抱えて生きていく…なんて、BADENDばかり、私の脳内によぎるのは、私も過去にそういった可能性があったかもしれないことを考えてしまうからだろうか。


話は逸れたが、私の持つものは完全な「孤独」だ。正直な所、私でも、一体何を恐れているのかは分からない。しかし、推測できることはある。

例えば、人の時間を無為に奪うことが怖いだろう。
特にすることの無い部活に3時間ほど奪われた日の虚しさを、私が与える側になることに、
そしてそれが相手を不快にさせ、次同じ機会がなくなる可能性が怖いのだろう。

また、自分の想いが正確に伝わらないことが怖いだろう。
好きでない相手を前に、当たり障りのない返事を書いた際に、過剰な行為が伝わる恐怖。大好きな相手を前に、照れ隠しが行き過ぎて、淡白になりすぎた文面がかえって冷たく
、不機嫌なポーズをとってしまう恐怖。
口を開けば必ず発生するそのすれ違いが、怖いのだろう。

あるいは、自分が人目に晒されている事実に耐えられないのだろう。
これはバレてると思い、焦って取り出した汚物が、相手の想像の枠外のものである可能性への恐怖。
これは持っとくべきと、陰に隠したものが、真に話すべきものであり、後の可能性をすべて破壊している可能性への恐怖。

考えだせば、キリがない。

ただ、一つ言えることは、私は、あまりに臆病であると言うことだ。
これは、初対面の人間と互いの良いところを見つけ合うという取り組みの中で言われたことだが、「あなたは、慣れると凄く喋るね」とのことだ。私は、この「慣れる」に加え、「離れる」をもう1サイクルとして、対人関係を育んで行く。
この「離れる」の工程では、相手を嫌いになるパターンの人もいるようだが、私の場合は、私のことがあまり好きではないのではないか、という妄想に取り憑かれることである。

幸せなことに、私の周りにいる人間に、私は、何で好きになって、関わって行くうちにここが好きになって、と言えるくらいには好きな人間が多い。故に、自分にも、同じ感動とトキメキを求めてしまう。

きっと、多くの凡人に、そのトキメキキラメキは本来なく、故にみなアイドルを好きになったりするのだろうが、私にはそれがよく分からない。経験としてあまりないからだ。


向上心はいいことだ。きっとあのキラメキにらあの光になるんだって、ずっと思い続けて生きてれば、自ずと近づくはずだからだ。

しかし、いつまでも追い続けて、求め続けていると、その過程の自分は、どうなるのだろうか。キラメキでない存在は、なんなのであろうか。


私の自己肯定感は、ずっと遠い未来に置いてけぼりなのかもしれない。

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