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こぼれゆく。

時々、白い箱の中に入れられているような気分になる。

箱は紙製で、ケーキ屋さんでショートケーキを買った時に貰うような簡素なものだ。シールで封がされているだけの簡素な作りで、内側からでも、腕を天高く突き上げるつもりでグーパンチすれば割とあっさり壊せる。

白い箱の中は、少し窮屈だ。オーダーメイドなのか私にピッタリのサイズになっている。

私は大体膝を抱えて黙っている。このまま箱の中でじっとしていても、言葉が枯れていく一方だなと、軽い疲労を感じる。言葉が封じられている。気軽に声にならない。

なんかぼんやりとしんどいんですよね。

もしかしたらちょっと悲しいのかも。

理由もなく久々に涙が出そうな気持ちです。

そういうなんてことない感情を簡素につぶやきたい。のだけれど、現状は諸事情あってちょっと難しい。私は主にnoteとTwitterに生息している。twitterは娘とその友人にフォローされているので、吐露するのにはあまり向かない。

なので、noteに文章を書いていこうかなと試みては下書きを増やしている。

なにか、こう、探しものをしているのだと感じる。

SNSを眺めながら、自分の中にある輪郭線の不確かなものと噛み合うなにかを。言葉自体は自分の中にあるのだとしてそれを映し出す鏡を。探しているような感覚が、漠然とある。

とにかく現状は、楽しいことや気持ちがざわつくことがあったときに、描きたいことを思い浮かべても、テキストにする段になって、思考のドアがあっけなく閉じて跡形もなく消えてしまう。珈琲を溢したシャツに漂白剤を使ったみたいに、あったはずなのに、なくなる。なので正直なところ、脳みそにケーブルを刺して、考えている最中の文章がリアルタイムで文字としてスマートフォンに出力されてほしい。

これはもう、辞書を読んで気ままに熟語の意味を拾って遊ぶところから始めるべきなのかもしれない。四文字熟語に込められた小話を読み解いたり、漢字の成り立ちを知ったり、頓挫したままの漢検の勉強に再度取り組んだりしたほうがいい気がする。

ものすごく、初歩的なものが錆びついている。

朝起きること、夜眠ること、日々食べること、呼吸をすること。そういう基礎的な部分が欠けている。

低空飛行で暮らしていくのが主義だけれど、昔の私が傷つきながらも大切に抱きしめて生きてきた何かが、掌から確かにこぼれ落ちている。

ぐちゃぐちゃな感情を胸いっぱいに溜め込んで、叫びだしたくなるのを堪えて、歯を食いしばって何度も起き上がってきた。そういう激しさは今の私にはない。

そこまでの強さが欲しいわけではない。けれど、白い箱の中でいつまでもうずくまっていても、埒が明かない。

もしも、「あなたの代わりはいるのでアタシ達は困らないから、いなくなっても大丈夫ですよ」と大事な人から言われたとしても、もしも、柔らかな羽毛布団にくるまるような暖かさと心地よさで、痛みも苦しみも感じることなく、ふわふわとアブクみたいに空気に溶けながらうっとりと死ねるのだとしても、まぁ、消えるのは今ではないなと思う。

まだ未練はある。

もう少し話していたい人もいるし、もう少し行く末を見守りたい人もいる。

錆びついてるものはもうしょうがない。

ギシギシいわしながら動かす。

こぼれてしまったものは、憂いながら足元に視線を落として、手を伸ばせるものがあれば拾えばいい。

思えば、しんどい時にしんどいとわかりやすく主張してこなかった。そういうのを押さえつけ過ぎると、心の反射神経を鈍らせてしまう気がする。秘密ノートに泣きながら書きなぐって吐き出したり、ひたすら絵を描くことに打ち込んだり、小説を書いて感情を注ぎ込んだり、一笑に付される覚悟で友達にリアルタイムで話せばよかったのだろう。
だけど、「言ったところでどうにもならないので、お聞かせするのが憚られる」という気持ちになってしまって、事後報告になることが多い。

ここ数年でいうと、家族が失踪したことに関する一連の出来事がかなり精神に堪えた。毎晩誰もいない夜道で泣いていたのだけれど、それも物事が全部片付いてから、知人と友人にそれぞれ聞いてもらった。ふたりとも、話をそのまま聞いてくれたので、少し安堵したのを覚えている。

私はもう割と色んなことについて、こだわりがない。昔の私は同じところをグルグルと回りつつも悪あがきするみたいに動き続けていた。そんな昔の私の背中を追いかけたらなら、今とはまた違った景色が見えるのかもしれない。ただ、私は忘れていく。ゆえに、数年前のことでも、とうにぼやけて見えなくなっている感情も多い。砂に埋もれていたガラスのかけらを拾い上げて手で拭っても、曇りは取り払えずに透明度を失っている。そこからどれだけの情報を読み取れるのかは、もはや想像力頼みな気がする。

失われてしまった記憶は復元できるのだろうか。本当にわからないのだ。あの時寂しかったのか、悲しかったのか。なので、探索するのなら、垣間見えるものを線でつなげて、分析した結果こうなりました、と補足していくやり方になるのだろう。

自己否定感と憧れが、私を突き動かしてきた。

そうして、人からもらった温かな感情で動いている。雨の日に通りすがりの人が傘を差し入れてくれたり、ふらつきながら歩いていると、大丈夫? と声をかけてくれたり、落とした鍵を拾って交番に届けてくれたり。例えば娘が私にハグをしようと言う、そのあったかい気持ちを食べて息をしている。

それから友人と文字で話したり、落ち着いたら出かけようねと約束未満の約束を交わしたりしながら、今日を過ごしている。

先の予定はカレンダーに書き込んであるけれど、基本的に今のこの瞬間だけを私は生きている。今の延長上に今日があり、今日を過ごせばその先にある明日を生きる。

そう、でも、ともかくこの鈍くなってしまった心については、種を植えることと、水をあげることが、必要になってくるかな。

テーマや話し出す順番も組み立てずにつらつらと書いた拙い文章を、ここまであなたが読んでくれて、私は嬉しいです。

話を聞いてくれて、どうもありがとう。


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