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『話す』は『放す』

くだらない、なんでもないような会話を交わせる相手がいるっていうのは、幸せなことだと思う。話を聞いてくれる人がいるのは、あたりまえのことじゃない。

会社の飲み会というものに、久しぶりに参加した。コロナが騒がれはじめた以降行っていないし、もともと義理飲みの場から遠ざかっていた。下戸だし。

平日夜、内輪の少人数、気心知れた集まりは、予想外に楽しかった。仕事帰りだし、ちょっとめんどくさいし、あんまり行きたくないとか思っててまじでごめんと思うくらい。

職場に、フランクに話せる上司がいた。仕事はばりばりにこなすし、厳しい面も大いにあったけど、ユーモアのかたまりのような人だった。毎日げらげら笑いながら、しょうもない話で盛り上がった。

その人は急にいなくなってしまった。
人ってほんとに死ぬんだと思った。

プチトマトと塩こんぶ、ごま油の組み合わせが美味しいとか。
ファミマに入った新作のお菓子とか。
プロ野球チップスで欲しいカードが出ないとか。
社内の人につけてまわってるあだ名とか。
絶妙なクオリティの似顔絵とか。

そういうやり取りにどれだけ助けられていたか、できなくなってから気づいた。
ぜんぶ思い出せるのに。
まだまだたくさん話したかったのに。

大衆居酒屋のせまいテーブルを囲んで、今日ここにいるはずだったのに。

生前に激推しされたカニカマフライを食べながら、話のあいまに、その人とのエピソードを混ぜる。
まるで、しばらく会ってないだけみたいに。

亡くなったことを、私は知らないことになっている。


『話す』は『放す』だと聞いたことがある。
話して手放せない分は、どこへやればいいんだろう。
帰宅してから、やっと少し泣けた。

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