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広東語なんてやめとけ

「来週から広東語のクラスに通い始めるんだ。」

インドネシアから香港にやってきて、私と同じように
ここで働いている友人である。
母国を離れて、今年で5年目。

そんな彼の決意に向かって、賑やかなMTRの中で放たれたのは

「え?何で広東語なんか習うの?普通話のが断然便利じゃん。」

という私の完全否定を伴った冷たい意見だった。
一分の躊躇もない、清々しいまでに明朗としたものだ。

私にとってみれば、当たり前のことをいったまでである。
そもそも、インドネシアの友人は香港の名門HKUSTに留学しにやってきて、
ついでにこの街で働いているといった背景を持った人間である上に
将来の夢は起業だし、香港に永住する意向もまるで感じない。

ならば、普通話であろう。

私のようになるようになるで日々を生きている人間ならまだしも、
自分でビジネスを切り盛りするなら、各言語を習得することがもたらす
アドバンテージも計算できないようでは先行きが不安というもの。
南アジアに広がった華僑においては広東語が達者なものも少なくないが
マーケットサイズを考えてみれば中国大陸のプライオリティの方が
どうしても高くなる。
事実、彼も私の意見に「やっぱり・・・?」と頭を掻いていた。

ちなみに、話をそういう国際ビジネスという舞台から下ろしてみて
日常生活に向けてみても、いまどきこの街では普通話で
十分生活できてしまうのである。
大陸からの移民も増える一方だし、旅行客を彼らの言語でもてなすことが
日常茶飯事となってしまった今、逆に普通話ができないなんて
なかなか言えたもんじゃない。
近年、香港人と普通話との距離も随分縮まったように思える。
(もちろん、それを好意的に思っているかは別の話だが)

じゃ、香港に住むのに広東語なんて要らないじゃん。

イエス。残念ながら、答えは明確にイエスである。
「香港人は何語を話すの?香港語?」
「バカだな。彼らはね、英語と広東語を操るバイリンガルなんだ。」

建前上はそういうことになっているが、言うほど英語が通じるだろうか。
私の肌感覚では、
流暢な順で広東語>>普通話>>>>>>>英語といった具合である。
むしろ最近なんて、通りを歩いていて広東語が聞こえてくると
ホッとしてしまうくらい、それほどまでに普通話が街を席巻してきている。

「だったら、広東語なんて要らないじゃん。」

では広東語は直に滅び行くのか?と言ったら、それはまた別のお話である。
そもそも、中国でも経済発展の先駆け(というか異国で成功した人たち)を
担った人材たちや、その子孫の間で広東語はいまだに話されており、
世界各地に広まった話者たちは統計によっては1億人を超えるそう。

どう控えめに見たって、この香港に住む人たちは広東語が大好きだし、
それを話すことを誇りに感じているように見える。
身の回りの友人を見渡しても、私が広東語がおぼつかなくて
英語に切り替えようとすると、すかさず

「お前、香港に住むからにはちゃんと広東語で話せよ。」
「広東語以外じゃ、話も盛り上がらないからつまんないし。」

私の広東語習得にムチとムチ!?が入る。
そもそも、私の身の回りの体感的な統計によると
ほとんどの香港人は広東語でしか心を開いてくれない。
誤解を恐れずいうなら、広東語のあの語感、スピードは
きっと香港人のDNAであり文化をまさに体現するもので、
逆に広東語以外を話している時の香港人は
なにかに乗っ取られたかのように居心地が悪そうである。
とにもかくにも、広東語が染み付いている。

ちなみに、私はどうして広東語を選んだのだろうか。

その選択を迫られた時、私には香港に対する愛着もそれほど無くて、
「普通話なんて出来ちゃったら、大陸にしょっちゅう出張かも・・・。」
そんな消去法的で、かつ全くもって非ビジネスマン的思考の持ち主
だったのである。本気で情けない人間である。

まぁ、いい。そういう不浄な土壌に蒔かれた私の広東語の種が、
学校の先生、周りの人、そして街市や茶餐廳のおばちゃんたちに
支えられ(鍛えられ)、スクスクと育ってしまったわけだが、
きっとその過程で知り合うことのできた友人たちや
見ることの出来た香港人たちの屈託のない笑顔といった貴重な財産は
もしかしたら私が普通話や英語を選択していたら出会うことが
出来なかったかもしれないのだ。

香港人はうるさい。
ただでさえ、ボリューム調整のつまみがぶっ壊れてるかと思うくらい
声がでかいというのに、それに加えて大阪のおばちゃんたちも
ビックリしちゃう程に野暮ったい広東語を喋る。

疲れてる時なんかに側で彼らのそういう騒音を耳にしてしまうと
殺意が湧いてきてしまうほどに不快な、一種の凶器のような騒音である。
しかし、例えば旅行から帰ってきて、香港國際機場からのバスに乗った時、
街の人々が全員普通話を喋っていたら。広東語を聞くことができなくなってしまったら。

いや・・・、ない、ない、ない。

街のあちこちで聞かれる喧騒。
頭上にぶら下がるネオンの看板。
下町の路上に展開される小食。
香港島を走るレトロなトラム。
大きな声で客を呼び寄せる街市のおばちゃんたち。

通りに漲るパワーに負けること無く、こういう風景の一部としてこの街で
ずっと生きていける言葉は、広東語をおいて他にはないような気がする。
結局、なんだかんだで愛すべき言葉なのである。

「え?何で広東語なんか習うの?普通話のが断然便利じゃん。」
(ま、俺は広東語選んだことに全く後悔はないけどね。)

二行目はいつも口に出さないけれど、間違いなく私の本心。
それを感じ取ったのかどうかは知らないが、彼の決断は変わらなかった。
来週から、また一人広東語話者が増えるのである。

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