メソッドとしての詩

さて、4月も終わりますね。

新しい職場に移ってひと月たち、ちょっと一息という感じでしょうか。とにかく、最初はいろいろなひとの名前を覚えないといけないし、「ワーキング・メモリ」の衰えも感じ始める今日この頃です…(苦笑)。

特に、前職がローカルな理数系の塾ですと、同僚の多くは同世代の男子で、相手にするのも10代のクライアントだったんですよね。となると、例えば、働いている女性とかって長らく物理的に目にしておらず…。人間って目にしていないものにかんしては、やはり、若干識別能力が落ちるのかもしれない、などと…(苦笑)。

会社に馴染めるかな、とか多少不安もあったんですが、それはまああまり困難はなさそうですね。精鋭が集まったこじんまりとした会社ですが、皆バックグラウンドは色々で、良くも悪くも動きは多そうなので、ある意味気楽です。

中には、多少、研究をやっていたような方もいて、わたしも今更ながら、Lightbowan & Spada, How Languages are Learnedなんていうのを教えてもらい、パラパラめくったりしています。英語圏のひとの第二外国語って、結局、フランス語だったりして、著作中で使用される例文もフランス語だったりするんですよね。研究しているのも、英仏話すカナダの研究者だったりして、比較文学をかじった人間としては、存外、進みやすい道だったかもしれません。

意外なところに戻るんですが、フランスにいた頃にわたしが比較文学の博士課程で研究していたのってサルトルのフローベール論『家の馬鹿息子』(1971, 72)だったんですね。ご存知の方あまりいないと思うんですが、これって、数千ページのめちゃめちゃ長い本なんですね。で、サルトルのmagnum opusと目されることも多い。

いまでも頭の片隅にはこの著作があるんですが、このフローベール論って、世界文学を代表するフローベールが、幼少期、言葉を覚えるのに苦労していた、というエピソードから始まるんです。つまり、単純化すれば、言葉を覚えるのに苦労した子供が、いかに、(19世紀フランス文学の代表作のひとつ)『ボヴァリー夫人』の作者になったか、を研究する著作なわけです。

それをですね、ある種、伝記的に、かつ心理学的に分析していく著作なんですが、これって見方を変えれば、一種の「言語習得論」なんですよね。サルトルにそういう視点があったかというと微妙ですし、フローベールほどの作家の習得論が、いま、我々一般ピープルの言語習得に何か役立つとは思えませんが(苦笑)、サルトルの試みというのは、実は、いまの認知心理学的な研究につながっていくものなんではないかと思いますね(実際、発達心理学との関係などは指摘されているんですが)。

まあ、しかし、19世紀の『ボヴァリー夫人』からも、20世紀の『家の馬鹿息子』からも、遠く離れたところに帰ってきました。さて、何をするか?

で、今度は古典の世界に行っちゃうんですけどね(笑)。『家の馬鹿息子』が嫌になって(短い)詩の方に舵を切ったわけですが、近代の形式である「小説」に比べると、詩というのは古い形式と見做されるわけです。

例えば、古代ギリシアですと、哲学者のプラトンが「国家」からの詩人追放論を唱えたとか、逆に弟子のアリストテレスは『詩学』で最初の詩学=美学を提示したとか、すでに詩と哲学のライバル関係が問題になっていたりする。

で、最近わたしが気になっているのは、その後、ローマ時代のホラーティウスの「詩論」の方。こちらは、Ars Poeticaですから、「詩法」と訳してもいいと思うんですが、だんだん具体的に詩を書く「メソッド」みたいな話になってきます。さらにいうと、〈メソッドとしての詩〉といいますか、詩がなんのためにあるのか、みたいな話にもなってくる。ここで、ホラーティウスが面白いのが、詩の「効果」ということを問題にするわけです。

で、実際、この頃の詩の一部に「教訓詩」(didactic poetry)という一群がありまして、「詩法」にせよ「農耕詩」にせよ一種の「哲学詩」にせよ、芸術作品としての美しさや、鑑賞者の心地よさみたいな観点とは別の、〈有用な詩〉という問題系がでてくる。ここが、いま、気になっているんです。

didactic poetryというのは、日本語では慣例的に「教訓詩」と訳されますが、ニュートラルに訳すと「教育詩」ですね(個人的にはこちらの方が好きです)。詩が有する教育的側面とは何なのか? 具体的には、フランスで出会ったフィリップ・ベックさんの『教育詩』(Poésies didactiques, 2001)がわたし自身にとっては出発点なんですが、まあこれを、いまの日本で考え直してみたいわけですね。

で、これもまた、英語教育に少しヒントが隠されているような気がするのです。例えば、少し馬鹿っぽいこと言いますが、「スラッシュ・リーディング」とかって詩みたいだと思うんですね(笑)。でも、まさに、安河内先生の(「英語4技能」の方の)『リーディング ハイパートレーニング』なんかだと英文がチャンクごとに縦に印字されており、「これ詩じゃん!」と(笑)。半分冗談ですけどね。

まあ、もちろん、韻文にとって「改行」って決定的なので、そんな単純な話ではないのですがーー例えば、古井由吉『詩への小路』、講談社文芸文庫版の平出隆さんによる「解説」などを参照ーー、詩の一行一行の長さは、伝統的なものであれば、チャンクの長さを大きく超えるものではない。となると、おそらく、これも「ワーキング・メモリ」の問題なんかと関わっているはずです。レイコフともまた別の仕方で、「詩と認知」の問題を問うこともできるのではないか?

そうなると、ようやく、ジャック・デリダの詩論なんかもみえてくる気がするんですね。フィリップ・ベックさんはこれを、ロマン主義の問題として捉え返すわけですが、詩を「暗唱」(apprendre par cœur)の問題と結びつけたデリダの詩論を、ある種の「習得論」さらには「教訓詩=教育詩」の問題へと「接木」させてみたいということになりますーーしかし、いま見返すと、デリダはすでに「記憶のエコノミー」(l'économie de la mémoire)なんて表現を印字しており、おそろしいひとだな、と思います…。しかも、訳者の湯浅博雄先生、「詩はなぜ暗唱されるか 詩と反復をめぐる覚書」なんていうこれもまた凄まじいタイトルをもつ小文を…(『総展望 フランスの現代詩』思潮社、1990年)。

Have a nice learning (by heart) !
栗脇

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