仮講義「松浦寿輝のシュルレアリスム」(Leçon 21)

さて、3週目に入ります。今回の主題は「シュルレアリスム」です。いよいよきたか、という感じですね。前回、推薦図書を朝吹さんのブルトンにしていましたので、お気づきの方もいらっしゃったかもしれませんけどね。少しずつ、松浦さんご自身のお仕事に入ってまいります。

すでに書いたこともありますが、松浦さんは、もともと、フランス文学研究の出身です。卒業論文でヴァレリーを、修士論文と博士論文でシュルレアリスムのブルトンを研究されています。昨年、1981年にパリ第3大学で提出された博士論文「アンドレ・ブルトンとテクストのトポロジー」が40年越しで、フランス語原文で、刊行されました。そういったこともあり、〈松浦寿輝さんご自身〉を考察の「対象」にする、というのも行われてしかるべきタイミングかな、と思うわけです。

なので、松浦さんは「シュルレアリスム」の専門家なんですね、一応。「シュルレアリスム」とは何か? これはですね、まさに、ちくま学芸文庫に巖谷國士さんによる『シュルレアリスムとは何か 超現実的講義』というのがありますので、この辺りを見ていただければいいかと思います。何て言えばいいんですかね、本当に全然知らない方向けに言えば、〈夢の世界〉みたいな感じです。一見すると意味不明な「イメージ」なんだけど、どこか心の奥底では知っていたような、独特の親密さを持つような「イメージ」。そういうものを提示する芸術の表現スタイルです。

で、「シュルレアリスム」の面白いのは、色々なジャンルで応答があることです。提唱者であるアンドレ・ブルトンは基本的には詩人で、まあ自伝的な小説なんかも書いているんですが、いずれにせよ文学者なわけです――医者でもあるんですけどね。その一方で、ブルトンのまわりには文学以外の芸術家もいるわけです。写真家のマン・レイなんていうのはそのひとりですね。あと、やっぱり、「シュルレアリスム」は絵画から入る方も多いかもしれません。先駆者として知られるのは、イタリアのジョルジョ・デ・キリコなんかです。ググっていただければ、「ああ、こういうのね!」とわかっていただけるかと思います。笑 それで、少し前に話したベルギーのルネ・マグリットとか、ポール・デルヴォーなんかが代表的な画家と言われます。あと、サルバドール・ダリですね。一番有名なのはダリかもしれません。溶けた時計の絵の人です。笑 あと映画監督のルイス・ブニュエルなんかも「シュル」ですね――ブニュエルについては、四方田犬彦さんが研究書を書かれています。『アンダルシアの犬』(Un chien Andalou)なんていう有名な短編映画があって、いまだとYoutubeなんかでみれますから、是非検索してみてください――眼球を剃刀で傷つける、なんていう衝撃的な映像があります。苦笑 あとは、わたしが卒論で研究したアルベルト・ジャコメッティ。ジャコメッティはですね、細長い人間の彫刻のひとです。一度はみたことがあると思います、皆さん。ただ、それは後期のスタイルなんですね。実は、前期はブルトンに近く、「シュルレアリスム」の主要メンバーのひとりだったんです。まさに「オブジェ」としか言いようがないような作品を沢山残しています――パリにポンピドゥー・センターという現代アートを集めた美術館があるのですが、そこにブルトンのオブジェのコレクションを集めたコーナーがあって、ど真ん中にはジャコメッティの『吊るされた球』という彫刻作品が置かれていたかと思います。

なので、「シュルレアリスム」というのは「学際的」なんです。笑 で、「国際的」でもある。日本でも、瀧口修造さんなんかが理論的支柱とみなされます。あと、西脇順三郎さんなんかも比較されたりしますけどね…またちょっと違う気もいたします。むしろ、吉岡実さんなんかは結構「シュルレアリスム」という感じがしますけどね…。で、前回触れた朝吹亮二さんや松浦寿輝さんが、大学ではブルトンを研究しつつ、80年代に詩を発表しはじめるわけです。

なので、当たり前ですけど、80年代っていうのは別にもう「シュルレアリスム」全盛期ではないんですよね。フランスの詩史においては、むしろ、〈シュル離れ〉みたいなものが起こっていた時期のような気もいたします。朝吹+松浦というのはちょっとした「伝説」みたいになっていますけどね…何か文学史的に必然性があったのかと言うと、必ずしもそうではないのかもしれません。それこそ、浅田彰さんの「ニューアカデミズム」の時期ですからね――ですから、わたし自身は松浦さんのことを「夜のニューアカ」なんて呼んでいたりもするのですが。ある種の「反時代性」というか、「時代の無意識」のようなものでもあったのかもしれません――もっとも、先日示した通り、「ポスト構造主義」の問題系とブルトンの「シュルレアリスム」は通底している部分はあると思いますけどね。

以前、「表象文化論」のハードコアに「詩」がある、なんていう言い方をしましたが、「シュルレアリスム」というのは実践的な意味において、「表象文化論」の先駆けみたいな部分もあったかもしれません。実際、最近では、「シュルレアリスム」を経由して文学とイメージの問題を問い、「漫画」などサブカルチャーに接続させていくような研究の流れもあります――もともと、「シュルレアリスム」の頃に「ファントマ」というダークヒーローがいて、「漫画」の題材になったりもしていたんですよね。これについては、赤塚敬子さんという「表象」の先輩が『ファントマ 悪党的想像力』(風濤社、2013)という研究書を書かれています。ひょっとしたら、松浦先生も審査に入っていたかもしれません。

「シュルレアリスム」は、本当、面白いんでね。ちょっとわたしも専門家ではないので大したこと話せませんが、是非、みなさんの方で再発見していただければと思います。われわれが実現できなかった「シュルレアリスム研究会」を、是非どなたかがやって下さればと思います。笑

最後に、少しだけテクストをご覧にいれましょう。朝吹さん+松浦さんの『記号論』より、比較的理解のしやすい――またnoteのフォーマットでもぎりぎり引用可能な――個所を引きます。

降りてゆくこと

くらい霧の街の、くらい黄昏を歩きつづけ、歩きつかれ、さらにくらい片隅をもとめて、馴染みのない紙幣を窓口におずおずと差し出し切符といくらかの小銭を受けとって、ぼくは映画館へと降りてゆく。朽ちかけの壁をつたって甘酸っぱい空気のおもみへと、ほこりの湿度へと降りてゆく。この狭い階段はまどろみのようにはてしなくつづいている。肌が触れるのは古いにおい、なつかしいにおい。ひとびとが浸りこんでいる安逸な闇にすべりこみ、ぼくも自分のけだるさと疲労をそこに濡らしてみる。
ここは、
あまりにも優しい冥界だ。
視界を遮る白い布の岸辺にくだけている光と影の波。ゆるやかに交替する潮の満ち干。せりあがってくる眠気のなかで、さからいがたい眠気のなかで、巻き戻されてゆくフィルムをたどりながら眼を半分だけつむって、仕草を、声を、手触りをもういちど思い出してみる。紐でくびれたふくらはぎのたわみ。歪んでもどらなくなる表情。大きなうねりをかきわけながら時間の流れをさかのぼってゆく。あの声、雨の匂いへ、かかえ、かかえられる肉のふるえへ、だが、あのつかのまの房事もまたひとつの反映、ひとつの想起でしかなかったのかもしれぬ。たぶん、もっと昔、もっともっと昔のもうひとつの恋に、もうひとつの声にまで眠りをとどかせる必要があるのだろうか。スクリーンの岸辺をこえてぼくの生まれる以前のくらがりにまでフィルムを巻き戻すべきなのだろうか。

朝吹亮二/松浦寿輝『記号論』思潮社、1985年、40~42ページ。

それでは、本日は以上にいたします。Boa noite !

栗脇


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