麻生健『ドイツ言語哲学の諸相』より

「例えば、子供が言語を習得する場合、子供は単に語彙を増やしたり、記憶したり、さらにそれらを再び機械的に反復できるようになるだけでなく、もちろんそういうこともあるが、基本的なことは、これらを通じて子供の中に〈言語能力〉が成長することである。この点は、先に触れたチョムスキーの場合とも異なるし、ましてアメリカ構造主義の場合のような、試行錯誤による〈言語能力〉の形成とも異なっている。しかもフンボルトは、もちろんこの能力を生得的なものとは考えないし、ましてそれは、言語を人間形成とは別個の、専ら外在的な道具と考える考え方とも異なっている。というのは、すでに述べたように、フンボルトにとって言語と人間存在とは一体であり、これも後に改めて述べることになるが、言語は何と言っても〈世界観 Weltansicht〉であり、個々人の、あるいはある言語共同体のもっている言語の発展は、個々人とその個々人が属している共同体自体の発展でもあるからである。いずれにせよ、こういった意味での〈言語能力〉の成長を認めない限り、例えば子供の場合に、かなり長い停滞期があった後に、ある日突然、以前に増して多く喋ることができるようになるような現象は説明できないし、またこれは、外国語の習得の場合も同じであると思われる。外国語の場合も、進歩は平均的、漸次的な直線的プロセスではなく、そこにはいわば間欠的な言語能力の成長が見られる。もちろんこの場合も、習得しようとしている言語を話している言語共同体への参加の度合の面から改めて考えてみる必要があるが、いずれにしても、こういった〈言語能力〉の成長がない限り、われわれは永久に翻訳作業という遠回りから解放されない。たしかに、翻訳作業自体に関しては、ある程度まで技術の進歩を想定しうるし、それは直線的に進むかも知れない。しかし、そういった技術的な進歩のみが本来の意味での言語習得であるとは決して言えないのであって、それは、言語の習得が何よりもその言語の〈世界〉の中に入ってゆくことであり、また、その言語を自分のものにし、自ら産出できるようになることだからである。フンボルトが言語能力を生得的なものと考えないのも、子供の言語能力の成長はまさに子供の〈世界〉の拡大だからであり、しかもこのことはまた、言語の個別性の問題とも絡んでいるのである。」

麻生健『ドイツ言語哲学の諸相』東京大学出版会、1989年、93~95ページ。

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