出口汪『現代文講義の実況中継』より

「そういった意味では、現代文は数学とまったく一緒なんです。数学は、論理を記号や数字を使って表すもの。それに対して、「論理」を日本語によって表したのが現代文の「評論」です。だからこの二つはいちばん近いんだね。一見、いちばん遠いようで、いちばん仲良しなんですよ。それをみんな、現代文は数学と正反対で、文学だとか、感覚的なものだとか、間違ったイメージでとらえてしまうんだね。現代文は数学と一緒です。
 しかし一方で、数学と現代文とは、まったく相容れない性質も同時に持っているのです。つまり、自分の思想を論理で表現するということまでは共通。その論理をどういう手段を使って表現するかというと、数学は記号や数字ですね。ところが、この記号や数字というのは揺れ動かないんです。〔1+1=2〕における”+”という意味は、きみたちの生いたちや感性とは関係ない。みんな共通の意味で通じるでしょう。
 ところが今まで述べてきたように、現代文は論理を日本語で表さなければならない。つまり、「個人言語」ということです。そして、その言葉は揺れ動く。論理そのものは普遍的ですけど、それを表現する言葉が数字における記号と違って、たえず状況に応じて様々な意味に変化します。だから、同じようにきちんと論理的に書いてある文章でも、われわれが自分の個人言語で読んでしまうと、人によって言葉の感覚が違うから、いく通りもの答えになってしまう。」

出口汪『改訂版 現代文講義の実況中継①』語学春秋社、2015年、46ページ。

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