仮講義「松浦寿輝の〈1880年代西欧〉」(Leçon 31)

「西欧の表象作用の空間には、十九世紀後半の一時期に或る地滑りが生じたように思われる。そのとき以来、或る特有の表象作用の政治構造によって特徴づけられる一つの時代が開かれ、その時代の磁場は、二〇世紀の全体をほぼ覆い尽くして今日のわれわれの思考の風景までをも浸していると言ってよい。ここでわれわれというのは、必ずしもインド=ヨーロッパ語族の言語を母語とする国民ばかりではなく、西欧型の大衆社会に生を享け、「映像文化」などと呼ばれもする「イメージ」現象に取り囲まれ、メディアが送り届けてくる情報の氾濫を享楽し、かつそれに苛まれてもいる「都市」型生活者の総体を指している。そうした意味での「われわれ」が、ここ百年有余の期間に渡って、いかなる表象空間の内部で生きることを強いられてきたかを、種々の分野の芸術的記号を横断しつついささか詳細に検討してみたいというのが、本書を貫く基本的なモチーフである。」

松浦寿輝『平面論 1880年代西欧』岩波書店、1994年、2018年、1ページ。

Bonjour ! それではやってまいりましょう。本日より新しいサイクルに入ります。予想が当たった方もいらっしゃるのではないでしょうか? いよいよ、「松浦寿輝の〈1880年代西欧〉」に突入したいと思います。

「1880年代西欧」というのはですね、具体的には、1994年に刊行された『平面論』の副題に使用されていた表現です。おおよそ「1880年代」の「西欧」に、「近代性=モダニティ」のあらわれをみる、というプロジェクトです。『口唇論』(1985年)に続き「文学」も重要な参照対象となりますが、そのほかにも「思想」や「芸術」、「メディア」など、領域越境的な主題が登場いたします。端的に言えば、「松浦寿輝の表象文化論」が具体的に開始されるのがこの書物においてです。

それでですね、この『平面論』はほかのふたつの書物とともに「三部作」をなすとされています。『エッフェル塔試論』(1995年)と『表象と倒錯 エティエンヌ=ジュール・マレー』(2001年)ですね。特に後者は、「表象」という表現が主題に刻まれていますし、松浦さんはこれでふたつめの博士号もとられておられますので、ある種、「表象文化論」の教科書と位置づけられるものでもあるかと思います。

――とか書いていましたら、帰省していた義妹がみて、「松浦先生って難しい本も書いているの?」とか言う。苦笑 『川の光』は知っているみたいですけどね。でも、そうなんですよね、わたしたち世代って、何より、『川の光』から松浦さんに入っていますからね…。そのノリで初期の詩集『ウサギのダンス』とかを手に取ってしまうとトラウマになり、文学が嫌いになってしまうかもしれません。ご注意ください。笑

さて、話を戻します。『川の光』の松浦さんはですね(笑)、かつては「表象文化論」という学問の創設に関わった文化史の研究者でもありまして、さらにその前はフランス文学から出発されたこともあり、フランスの芸術や文化に関心を寄せられていたわけです。先に書いた通り、「エッフェル塔」とかを論じるわけですね。もちろん、皆さんがよく知っているパリのあの「エッフェル塔」です。誰もが見て知っており、しかし、徹底的に調べ上げようとは思わない「死角」を撃つのが、研究者・松浦寿輝の研究スタイルであったと言ってもいいかもしれません――「口唇」も、ある意味、そうかもしれません。

では、「エッフェル塔」をどう論じるか? これはですね、今後詳しくみていきますが、ある種「記号」としての「エッフェル塔」、「表象」としての「エッフェル塔」を問題にするわけです。で、そのために「建築」としてこれがどのようなものであったとか、都市計画としてどうだったとか、それをめぐるイデオロギーの対立はどうだったとか、そういう諸々の「力学」を丹念に追い、一冊の「書物」を書き上げてしまうわけです。最後は、ゴダールの映画の参照で終わります…。

フランスの批評家ロラン・バルトには、確かに、『エッフェル塔』という評論があるのですが、それを除けば、松浦さんほどエッフェル塔にこだわったひとは世界的にもいないのではないか。少し前にロマン・デュリス主演で『エッフェル』がありましたけどね…。実は『スパニッシュ・アパートメント』三部作の大ファンであるわたしではありますが(苦笑)、しかし、「総合的な面白さ」としては松浦先生の『エッフェル塔試論』の方を推したいと思います。(ちなみに、わたしは「ウェンディー」が好きです。『ロシアン・ドールズ』ですね。笑)

とにかくですね、いまでもそうした大衆的な映画の題材となるような「エッフェル」ないしは「エッフェル塔」を論じるわけです。これは、やはり、斬新な試みだったのではないか。ヴァレリーやブルトンは、一応、文学研究という正当な学問の、すでに比較的に認知された研究対象だったのだと思います。もちろん、「エッフェル塔」も建築史などの分野では研究されていたかもしれませんが、その「表象」をも含む文化史的意義みたいなものを徹底的に調べつくすというのは前代未聞の試みだったのではないかと思います。

誰もがみている対象(=エッフェル塔)を徹底的にみつくす。使える手はすべて使う。ほかの研究者と分業などしない。こうした孤高の「独身者」によって「表象文化論」が生成していくことになったという「歴史的現実」はあらためて思い起こしてもいいと思うのです。もちろん、独りよがりになるのはまずいですけどね。しかし、同時に、同業者となれ合っているだけではだめだと思います。全責任を自分ひとりで取る、そのくらいの覚悟も時には必要ではないか。

「1880年代西欧」というのもですね、ある意味、松浦さんが勝手に言い始めるわけです。こう説明されています。

「「一八八〇年代」とは、厳密に限定されたその十年間という意味ではなく、だいたいそのあたりの時期を思い描くための便宜的な目安にすぎず、一八七〇年代や九〇年代に起きた出来事を無視するというわけではない。ただ、或る「切断」を示唆する数々の重要な事件が一八八〇年代に見出されることは事実であり、その幾つかにわれわれはやがて視線を注ぐこととなろう」(『平面論』、前掲書、3ページ)。

原書では「だいたいそのあたりの」に傍点がついていますが、これもなかなか面白いですよね。「~年周期説」みたいな「歴史哲学」とは違います。しかし、おおよそその時期に何かが起こったという「直感」というか「仮説」をもとに、新しい物語を紡ぎあげていくわけです。

文学研究から表象文化論へ。これは、やはり、強いて言えばフーコーなんかを反復していることになるんですかね…。わたしもですね、もちろん、美術史研究でもない、哲学研究でもない、文学研究でもない、「表象文化論」の研究をやりたい!、という思いがなくはなかったんですけどね…。結局、いまのところいい主題が見つかっていません。自分のスタイルに合っていないのかもしれませんし、フランス系でできることは全て松浦さんが片づけちゃったのかな、とかも思いますし…。(しかし、その間に入江哲朗さんに北米方面で『火星の旅人』を書かれちゃったんですよね。苦笑)

そういうこともあり、ちょっと本気で「ポスト表象文化論」ということを考え始めているんです。まあ、その前にもう一度、松浦さんの仕事を見直してみようというわけですね。

何にせよ、『平面論』『エッフェル塔試論』『表象と倒錯』はどれも読み物として面白く、知的にも大変スリリングなものですので、是非皆さんにも読んでいただければと思います。わたし自身は、やはり、文学系ですから『平面論』が好きですかね…。まあ、いずれにせよ、まずは第一作であるこれから扱っていきたいと思います。

それでは、本日は以上にいたします。Bon week-end !

栗脇


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