仮講義「松浦寿輝のシュルレアリスム」(Leçon 30)

さて、はじめて行きましょう。今日は色々ニュースがありましたね。吉田喜重監督が亡くなられましたか。わたしも、『エロス+虐殺』なんか大好きですけどね。ご冥福をお祈りいたします。いま駒場にマチュー・カペル先生という日本映画の研究者がおられて、喜重監督についてもやられていたと思います。

あと、柄谷さんが賞を取られたんですね。結局、日本人の思想家で世界的な評価を得ているのは柄谷さんくらいですもんね。喜ばしいニュースです。わたし自身はといえば、それこそサルトルの他者論を修論で扱った頃に『探究I』を発見して、「これはすごい!」と熱狂したんですけどね。実を言えば、わたし自身は柄谷さんの他者論の方が好きなんです。ある種、わたしも懐疑主義者なんですね。独我論みたいなものにも興味があります。まあ、そこに他者の「まなざし」や「言葉」が不気味に介入してくる、というのもよくわかるんですが。

わたしの修論のタイトルは「可傷性とモノローグ」でした。前者が、ある意味、サルトル&レヴィナスで、後者が(逆転した)柄谷なんですよね。その後、ウィトゲンシュタインの『哲学探究』や野矢茂樹さんの他者論を読んで、その方向を追ったこともあるんですが…まあ、結局、文学や詩の方に来てしまいました。いまでも、スタンリー・カヴェルなんかちょっと読んでみたりもしているんですけどね…。

「仮講義」も「教える-学ぶ」の非対称な関係性に基づくものですからね。毎回、「命がけの飛躍」と思っております。苦笑 引き続き、よろしくお付き合い下さいませ。

さて、「松浦寿輝とシュルレアリスム」サイクルが終わりました。10回目は毎度、「振り返り」になります。各回の参考図書をまとめてみましょう。

①朝吹亮二/松浦寿輝『記号論』思潮社、1985年。
②田村毅・塩川徹也(編)『フランス文学史』東京大学出版会、1995年。
③塚本昌則『目覚めたまま見る夢』岩波書店、2019年。
④鈴木雅雄(編)『シュルレアリスムの射程』せりか書房、1998年。
⑤酒井健『シュルレアリスム』中公新書、2011年。
⑥アンドレ・ブルトン『通底器』足立和浩訳、現代思潮新社、1978年。
⑦松浦寿輝『口唇論』青土社、1985年。
⑧松浦寿輝『afterward』思潮社、2013年。
⑨松浦寿輝『秘苑にて』書肆山田、2018年。

男ばっかりですね。苦笑 でも、まあ、すべて読み応えのある「書物」だと思います――まあ、このくらいの水準を「普通」と思っていただきたいのですが。

わたしはですね、その後、『鳥の計画』とか、『吃水都市』とか、松浦さんの詩集を読み返したりしていたんですけどね。このあたりは、また、取り上げることになるでしょう。ちょっとですね、スクリーン上では引用しがたい文言も多数あるんですけどね…。苦笑

ある種、「スクリーンの詩学」みたいなものをわたしは構想しているんです。これは、多分、松浦さんご自身は具体的には着手していないと思うんですね。しかし、わたし自身についていえば、引用もそうだし、自分の作品をも「スクリーンの海」に浮かべてみたい、という欲望があるわけです。必然的に、書物に収まることを志向する言葉とはベクトルが逆になる気もいたします。

とういうことで、最後はまた拙作で締めましょう。ちょっと、いま、創作は休止しているんですが、現時点では、下記が、「最高到達点」です。苦笑 創作原理――「置換的崇高」と呼んでおきましょう――は全然「シュル」ではないんですが、「魚」は多分、『溶ける魚』から来ているんじゃないか…。

それでは、本日は以上にいたします。

栗脇

===

拙作「チューイン魚」(2022)

鈍器派、
漏れまで高踏で
三度もチューイン魚活けて

「射るにもか?」

変わらず、
死国と接近を繰り返しており、
近代詩病
といわざるを得ない状態が続いております。

鈍器の掛かる
無菌アティチュードは、
聖母に過大なる誘惑を仕掛け
他の皿に隠者への業
無に十打 否 死傷を与え

「鐘、増せ!」
「ん?」
「旗!」

鈍器の掛かる
更衣室は、
投射十秒
木曽九代(*十は痴情)
無福の絵心
第二版刷る者です。

◆月光◆つきびかり◇増しましては、
彷徨
杳子の名
無菌アティチュードを全開にされるよう、
ポンチョを持って

註:E足します。

このチューイン魚に面して、

「史実と相違するな」

と、鈍器の子分が出しゃばるときは
この文鳥を活け取った◆朱鷺◆とき◇から一蹴

(*冠位無き二分)

書で問う書句:

「無神論にて
異種
知つてください。」

チューイン魚に死

たがふ書紀は済み
蟹や牡蠣に
喜入の夢

「装飾魔出て
異種
知つてください。」

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