仮講義「松浦寿輝のシュルレアリスム」(Leçon 24)

「おそらく『シュルレアリスム宣言』はこのことを、すでにいく度も強調していた。過去の書き手たちのいわゆる「天才」が、すべて結局は「シュルレアリスム以外のプロセスに帰着し」ないという断言が、すでにこのことを意味する。繰り返されるのは作品とその意味するものでなく、プロセス、すなわち身振りであるからだ。シュルレアリストたちはランボーの言葉を模倣して同じ湖底のサロンを目撃しようとするのではなく、ランボーの身振りを反復することで自らの真実を生み出すための機会を窺うのである。自動記述を「定義」しようとする意志とはおよそ無関係な場所で私たちを自動記述の「身振り」へと誘惑しようとする「シュルレアリスム魔術の秘訣」を再び思い起こしてもいい。シュルレアリスムとは小説を書くふりをして書くことであり、演説するふりをして語ることである。『磁場』という「散文詩」がすでに、まるで散文詩であるかのように偽装した言葉の群れだったのかもしれない。おそらくオートマティックな言葉の比喩として「神託」が引き合いに出されたという事実にしても、「偽装」とはなされたことの「模倣」でなく身振りの「反復」であることを意味している。神託とは神の言葉の模倣ではなくその反復であるからだ。人々は神の言葉を聞き知っていて、それと似ているから神託の言葉を聞き分けるのではない。神託を告げるとは、別の時空間にすでに存在しているものを今ここで再現できるかのように振るまうことではなくて、何らかの他者が自分の代わりに今ここにいるとすれば語るであろう言葉を語ること、他者の身振りの延長である。」

鈴木雅雄『シュルレアリスム、あるいは痙攣する複数性』平凡社、2007年、321~322ページ。

Bom dia ! それでは、はじめて参ります。

少し時間が開きましたが、その間もいくつか「シュル」関連の文献を読んでいました。精読できているわけではないんですけどね。その中で、印象に残った一節が、上に引いた鈴木先生の引用です。noteだと「傍点」が反映できないので、詳しくは是非、原書をあたってください。

「シュルレアリスム」の核を「身振り」の「反復」とみるわけですね。そう考えると、わたしの「仮講義」も「シュルレアリスム」の一種なのかもしれない。笑 それはさておき、「内容」の「反復」ではなく、「身振り」の「反復」だという問題系です。例えば、フローベールの『ブヴァールとペキュシェ』なんかだと、最後は「筆写」という営みに落ち着くわけです。これはどちらなんでしょうね…。しかし、基本的には書かれた「内容」を「反復」する営みでしょう。これに対し、ブルトンらは「身振り」を「反復」するという。「書くふりをして書く」「演説するふりをして語る」わけです。「神託」というのがその極にあるということなのでしょう。副題の(痙攣する)「複数性」というのも、この辺りに絡んでくるのかなと思います。

「シュルレアリスム」はブルトン個人の活動ではなく、グループの活動なんですね。こういってよければ、ある種「共同体」論にかかわる部分もあるのかなと思います。そのとき、「身振り」の「反復」というのはどういう意味を持つのか?

詳しくは、是非、鈴木先生のご著書をご覧いただくとして、ここでは少し自由に問題を展開してみようと思います。少し「シュル」から離れます。「身振り」の「反復」というと、わたしなんかが思い出すのは、やはり、アビ・ヴァールブルクの「情念定型」です。これについては、田中純先生の『記憶の迷宮』あたりをご覧ください――確か、末尾で、フローベール的な「紋切型」と比較されていた気もしますが、ヴァールブルクの「情念定型」も「身振り」の「反復」の「愚かさ」があるわけです。登場人物や状況、文化、コンテクストなどは異なれど、「身振り」、そこに描かれたひとがとる「姿勢」の同一性は保持されることになります。

どうですかね、鈴木先生のいうシュルレアリストの「身振り」の「反復」とヴァールブルクの「情念定型」…。比較できそうな気もしますが…。ある種、身体に関する「分有」の問題ですよね…。「儀礼」ということとも当然繋がってくる…。まあ、例によってアイディアだけ投げておきます。誰かやってください。苦笑 鈴木先生の著作でも、どこかで、シュルレアリストたちの「愚かさ」という表現がでてきたかと思います。一応書いておくと、「愚かさ」という表現は、わたしの場合、bêtiseというフランス語を念頭においています(「愚鈍さ」と訳されることもあります)。

いまふと見ていたら、鈴木先生のご著書、帯にはこう書かれていました。「シュルレアリストは互いに痙攣を贈与しあう/「真実と現実の齟齬」としての痙攣」。最近、いわゆる「贈与論」の研究が――日本で――多数発表されていますが、鈴木先生の研究も、ある意味、「贈与」の問題として「シュル」に取り組むわけですね。しかし、考えてみれば、同世代のサルトル研究者、澤田直先生の『呼びかけの経験』なんかも、ちょっとナンシー的というか、サルトルのうちに「共同体」の問題をみるものなんですよね。やはり、対象は違えど、世代で共有される問題意識というのはあるのかもしれません。

これに対し、松浦さんのブルトン論はもうすこし個人の意識や実践に向かう気がするんです。もちろん、集団での創作には関心があるでしょうし、すでに見た通り、朝吹さんとの「コラボレーション」も行われている。しかし、『謎・死・閾』に所収の数本のブルトン論をみるに、研究者としては、もう少しブルトン個人に関心を向けておられる気がするわけです。最初の論文は、まさに、「ブルトンの「内部」」というタイトルです。

以前、「主客消失」というエセーを取り上げ、松浦文学における「内と外」の問題を扱いましたが、この最初期に書かれた学術論文でもすでに、「内部」という空間性がキーワードになっているわけです。副題は「声はどこから来るのか」ですか。これは、少し、ブランショの『他処からやって来た声』を連想させないでもない。松浦論文の冒頭では「非人称の〈声〉」という表現もみられます。幾分か、ブルトンをブランショと重ね合わせながら読んでいるような傾向もあるかもしれません――このあたりは、しかし、丁寧にみる必要があるでしょう。とても面白い問題かと思います。

松浦さんの論文はですね、その後、ブルトンにおける「無=意識性」(inconscience)という表現を、当時フランスに入り始めたフロイトの「無意識」――フランス語では通常inconscientという形容詞を用いて訳されます――と比較し、ブルトンはあえてフロイトの用語と区別を行っていた云々というような議論に展開されていきます。こういう風に、訳語の微妙な差異に注目しながら議論を展開していく「身振り」は、幾分か、〈デリダ的〉かもしれません――「複数性」に着目する鈴木氏を〈ナンシー的〉と呼んでみるのは、少しやりすぎでしょうか?

いずれにせよ、同じブルトンでも、アプローチの仕方が違うと別の知的風景が広がるわけです。もちろん、プロの方々にとっては当たり前のことでしょうが、もしこれから文学研究に進んでみようかなと思う方がおられれば、例えば、ブルトンを巡り松浦論文と鈴木論文を比較してみる、なんていうのもいい勉強になると思います。はっきり言って、おふたりとも、非常に高いレベルで研究されています。フランスでも通用するという意味において、「普通の研究」と言っていいでしょう。

松浦さんの「ブルトンの「内部」」は本当面白いので、是非みてみてください。これ、実はネットでも読めるので、リンク貼っちゃいます(https://www.jstage.jst.go.jp/article/ellf/41/0/41_KJ00002504491/_article/-char/ja/)。まあ、でもぜひ、『謎・死・閾』もゲットしていただければと思います。

ちなみにですね、鈴木雅雄(編)で『シュルレアリスムの射程 言語・無意識・複数性』(せりか書房、1998年)という論集もあります。こういうのがですね、意外といいんです。笑 大学で勉強すると、こういうのが「意外といい」というのが何となくわかるようになりますのでね。ぜひ、頑張って勉強していい大学に入っていただければと思います。何に役立つ能力なのか、ちょっとよくわからないですけどね…。苦笑

『シュルレアリスムの射程』の末尾には文献表が載っています。こういう末尾の資料的ページを眺めることが案外大事なんです。そうすると、段々、このあたりは必読というのがわかるようになります。「シュル」に関する網羅的な書誌なので、90年代の論集ですけど、まだ全然有用だと思います。後ろから11ページ目には、松浦さんの『謎・死・閾』も触れられています。「ここに含まれるブルトン論、特に『通底器』論は、日本語で書かれた最良のブルトン研究の一つ」と書かれていますね。いま、松浦さんのブルトン研究が読まれているかというと若干怪しいと思いますけどね…少なくとも90年代には、まだ、その重要性が共有されていたわけです。

何となくですけど、フランス文学・思想系の研究は、日本では、90年代にみるべきものがある気がしますね。

それでは、本日は以上にいたします。

栗脇

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