デリダ『シボレート』より

「この凝集させられた多数多様性を、ツェランは強くかつ含蓄に富む、集中concentrationという一語で名指している。少し先では彼は、たまたま出会うものへの詩の注意力(Aufmerksamkeit)を語っている。この注意力とはむしろ「われわれの日付のすべて」を記憶に保持する集中力であるだろう(eine aller unserer Daten eingedenk bleibende Konzentration)。この集中=強制収容という語は記憶にとっては恐ろしい語ともなり得る。だが、同時にà la fois、人は、それを魂や心の集い、あるいは例えば祈りにおける精神の集中が語られるあの境域(ツェランは、カフカについての詩論の中でマルブランシュを引用しているベンヤミンを引用しているーー「注意力とは魂の自然な祈りである」)においても、また集中が、記念誦=想起という同じ中心のまわりに多数多様な日付を凝集させるというもうひとつ別の意味においても理解することができる。「われわれの日付すべて」はただ一度foisということのうちに、ただ一つの場所においてーーつまり、実際にはただ一つの詩、このひとりであるもののうちにおいて、すなわちすでに見たようにその度ごとにただ一つであり、ひとりであるもの、孤独で特異なものであるこの詩というものにおいてーー互いに結合し、星座を描きだすのである。」

ジャック・デリダ『シボレート パウル・ツェランのために』飯吉光夫/小林康夫/守中高明訳、岩波書店、1990、25〜26ページ。

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