仮講義「松浦寿輝のシュルレアリスム」(Leçon 26)

「シュールレアリスムは、あまりにも分裂している数々の世界、つまり覚醒と睡眠、外的現実と内的現実、理性と狂気、さめた認識と愛、生活のための生活と革命、等々に分裂している数々の世界のあいだに一本の導きの糸を投げかける以上のことは何も試みたことはない、とみなされることを私は願っている。」

アンドレ・ブルトン『通底器』足立和浩訳、現代思潮社、1978年、107ページ。(「導きの糸」に傍点)

さて、『通底器』を読んでいました。実は、初めて読みました。大学一年生の頃、「シュルレアリスム研究会」を構想していたころに『ナジャ』を読み、卒業論文「ジャコメッティの檻」を書いていたころに『狂気の愛』を読んだはずですが、今回の「仮講義」に際し、『通底器』にたどり着いたわけです。一応、これはブルトンの自伝3部作ですよね。少し感慨深いです。

『ナジャ』が一種の「恋愛小説」で、『狂気の愛』は一種の「芸術論」とわたしは読んだのですが、『通底器』は何でしょうね。ある種の「哲学」になるのでしょうか。フロイトの『夢判断』を読んだり、「愛」や「家族」のテーマに即し、ヘーゲルやエンゲルス、マルクスら、ドイツ系の思想家が引照されていきます。それで、冒頭に引いた個所に端的に表れるように、あらゆる「二項対立」的主題の「通底」が問題になるわけです。

例えば、サルトルの『聖ジュネ』であれば、対立する概念が「回転装置=回転扉」(tourniquet)のイメージで循環するものとして描かれるのですが――ここでも、やはり、ヘーゲルの弁証法との比較が問題になります――ブルトンは「通底=連絡」にこだわるわけですよね…。『通底器』というのは、フランス語ではLes vases communicantsです。vaseというのは、英語と同じですが、「花瓶」や「壺」、「器」を意味するものですね。「しびん」や「おまる」に使うこともあるようです――マルセル・デュシャンの「レディ・メイド」を思い起こしておきましょう。communicantというのは、動詞communiquerの現在分詞系で、「相通じている」「連絡している」という形容詞的な意味を持ちます。まさに、「通底している」ということです。ちなみに、communiquerというのは、接頭辞のcom-が示すように、「ともに」とか「一緒に」という意味を持ちます。「同一のものにする」というのが、語の作りとして、「コミュニケーション」することなのでした――ちなみに、接頭辞をcom-からim-に代えれば、「免疫」(immun-)という要素が見出されます。これは、イタリアの思想家ロベルト・エスポジトあたりが考察していることです。(コロナ禍のわれわれは、或いは、vases immunicantsを発明するべきかもしれませんが!)

いずれにせよ、端的に言えば、「理性と狂気」の「通底」が問題になるのが「シュルレアリスム」なのです。これはどうでしょうね…一般に「文学」というのはそういうものな気もしますが…。この「仮講義」でよくその2巻を引く『フーコー・コレクション』は、1巻のタイトルが「狂気・理性」だったりします。石田英敬先生の訳で「狂気、作品の不在」という論考が入っていますが、これはアルトーやルーセルが問題になっています。あとは、やはり、『狂気の歴史』関連の論考でしょうか。

どうでしょうね…フーコーの場合、ブルトンのこの引用みたいな仕方で「理性と狂気」の二元論を前提にし、その「通底」を語るということはなさそうですけど…。有名な、デカルトをめぐるフーコー=デリダ論争なんかも考え直してもよさそうですね――これについては、『岩波講座現代思想 5 構造論革命』(岩波書店、1993年)所収の増田一夫先生による論文などが参考になります。

あるいは、「覚醒と睡眠」という表現もありますね。佐々木敦さんの小説が『半睡』でしたが、あの作品にも多少、「シュル」的な要素があるでしょうか…。ちなみに、佐々木さんの『半睡』は漱石の『夢十夜』を下敷きにしているんですよね。何回か前に引いたわたしの「白昼夢十夜」は、多分、そこから出てきています。

松浦さんの小説にも、やはり、こうした二元論の「対立」あるいは「反転」みたいな構造がある気はいたしますね。国外でも訳されている『巴』なんかは、まさに、「虚実」が入り乱れる作品です。厳密に言うと「シュルレアリズム」とはちょっとちがう気もしますけど、『巴』は面白いですよ。冒頭のポルノ映画も印象的ですが、何といってもラストの――ネタばらしになるのでやめておきましょう。笑 東京を舞台にした中編小説です。英訳は『トライアングル』、仏訳は『ル・カリグラフ』(書家)となっていますね。この小説、「巴」という漢字それ自体が物語に関わってくるのですが、まあ、そこまでは翻訳不可能ですよね。苦笑 日本語原文で読めることを喜びたいと思います。

あと、『半島』という中編小説もあります。個人的には、こちらの方が好きかなぁ…。やはり、映画が出てきたりもするのですが、『名誉と恍惚』につながるような、ある種の「中国趣味」もすでに出てきています。これも「シュル」ではありませんが、「舞踏」みたいなのは出てきますね。『半島』もまた、ある種の「波打ち際」で何かが「通底」してしまう話なのですね。

ところで、話が広がりますが、「文学」で面白いのは、ほかの芸術を「表象」できることではないでしょうか。松浦文学には映画(作品)の「表象」や演劇(作品)の「表象」、さらには美術(作品)の「表象」もあります――『名誉と恍惚』では、まさに、シュルレアリスム風の作品を作る中国人が出てきたりします。それこそ、ウエルベックの『地図と領土』なんかもそうですが、実際には存在しない芸術作品をいかに「表象」するか、というのは小説家の「腕」の見せ所でもあるわけです――確か、訳者の野崎歓先生がこの点に注意を促していたはずです。

例えば、映画で演劇を「表象」するためには、まず、実際に演劇をやらせるわけでしょう――濱口竜介監督の作品を思い起こしてもいいかもしれません。絵画を「表象」する際も、実際に、何かタブローを用意するはずです。しかし、「文学」においては、言葉だけで、未知の芸術作品を「表象」できるのではないか――いまさらいう事でもないのかもしれませんが、数週間前にふと思い立ち、ひょっとしたら面白い指摘なのではないかと思ったので一応書き留めておきます。少なくとも、松浦文学を理解する上では重要なポイントかもしれません――もっとも、ブルトンにおいては、それこそジャコメッティの彫刻作品とかダリの絵画作品とか、実際に身近にいたシュルレアリストたちの実在する作品を「表象」しているケースも少なくないのですが!

ちなみに、芸術家の側の「文学」もなくはありません。ジャコメッティの『エクリ』に所収の「夢・スフィンクス楼・Tの死」は、しばしばブルトンの作品と比較されるものです。

ということで、結局わたし自身は芸術論『狂気の愛』の方に関心があるのかもしれませんが(笑)、今日は『通底器』です。先に書いた通り、フロイトの『夢判断』を読み、部分的に批判を加えるような件もあるのですが、巻末にはフロイトからの「応答」も付せられています――かなりバチバチやりあっていますね。少なくともここでは、フロイトは「シュルレアリスム」に理解を示していないようです。少し後に、ハイデガーがサルトルの「実存主義」の無理解を批判するというようなこともありますが…。

あと、『通底器』で面白かったのは、「家族」のテーマですよね。「恋愛」に関する考察が展開される流れで、マルクスやエンゲルスの「家族論」が参照されるわけです。松浦さんの形象としても、「独身者」というのがあります――特に、『口唇論』で出てきますね。これも、反転した「家族論」として読むことはできるでしょうか? ちょっと、変なことを言ってしまっているかもしれませんが…。ちなみに、近年の「家族論」としては、東浩紀さんの『観光客の哲学』の後半が「家族の哲学」です。

「家族」というのは、近代思想ではヘーゲルあたりから出てくるものなのですが、おそらくデリダもかなりこだわっていたのだと思います。1970年代初頭に『弔鐘』のもとになるセミネールがあるはずですが、これがヘーゲルの「家族」についてではなかったか…。ちなみに、このころ、サルトルの『家の馬鹿息子』やマルト・ロベールの『起源の小説と小説の起源』――「ファミリー・ロマンス」について――、さらにはドゥルーズ&ガタリの『アンチ・オイディプス』が出るわけです。本質的な成り行きなのかは少し疑問ですが…70年代フランスには「家族」をめぐるそういう文脈もあるわけです。言うまでもなく、東さんのデリダ論は70年代~80年代の著作を扱うものです。もしかしたら、「家族の哲学」もこのあたりから来ているのかもしれません――ちなみに、サルトル研究者フランソワ・ヌーデルマンにも家族論(Les airs de famille)があり、短いですがデリダへの言及もあります。

今回、なぜ、デリダの話をしているかというと、『通底器』の訳者が足立和浩さんだからなんですね。言うまでもなく、『グラマトロジーについて』の邦訳者です。『人間と意味の解体 現象学・構造主義・デリダ』(勁草書房、1978年)なんていう本格的な論集もあります。面白い訳業が沢山あるのですが、早世されてしまったんです。「仮講義」でよく引く豊崎光一さんも、同じころに亡くなってしまうんですよね…。ちなみに、『通底器』は豊崎訳もあるようです。

いまでは、文学研究と哲学研究が分かれてしまいましたけどね。ブルトンを訳せるくらいフランス語が堪能なデリディアンがまた登場してほしいなとは思います。

それでは、本日は以上にいたします。

栗脇

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