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 プロフィール 私がメイクアップアーティストになった理由(前編)

私は、群馬県で生まれ、4月が誕生日のお姉さんだったために、小学生の時は運動も勉強もできる優等生。
子供の時は、やはり生まれ月というのは、能力に大きな影響がありますね。

中学の時も長女としての期待に応えたい、小学校の実績のイメージを壊せない、と頑張ってきたのですが、高校で息切れ。
高校は女子校でしたけど、当時の型にハマった窮屈な感じが嫌でしたね~。
当時、どう自分を発散していいのか?カテゴライズされるのが嫌で、あっという間にドロップアウトしてしまいました。

もっと自由に自分の好きなことをして生きていきたい!どんなカテゴリーにも属したくない!
昭和の80年代始めの高校生としては、考え方が進んでました。
鬱蒼としていた高校生の時に、フラッと立ち寄った本屋さんで手に取った一冊の雑誌。
それは、マガジンハウスの「anan」。
高校生の私には新鮮で、夢のような世界観が展開されていましたね。
甲田益也子さんやくればやしよしこさんが、個性的だけど知性溢れた感じで佇むページ。独特なこの世でないような、空気感をまとったモデルとヘアメイク、空間。
「こんな世界があるのね!スタイリストって??ヘアメイクアップアーティスト??ハウスマヌカン??わぁ~~なにこれ~❤❤」
専門のプロや技を持った技術者が「一つの世界を創り上げていく」そんな仕事に、初めて心から興味が持てた世界でした。

たまたま親戚に美容院をやっていた叔母がいたので、相談して、高校に行きながら、通信で美容学校に行きました。
今思えば、両親に2つ学校の費用を出して頂けて感謝しかないです。
当時通信は2年で、夏にサマースクールがありました。山野愛子美容学校の当時はボロボロの校舎で2週間、寮生活をしながら志を持った地方の方々と友達になりました。
でも当時の仲間で、今も美容師を続けている人が一人もいないのは寂しいですね。

メイクアップアーティストになる!という目標があったので、とりあえず高校卒業後美容室入社。1年のインターンを経て、国家試験合格して晴れて美容師に。3年頑張ったら辞めようと決めていたので当時真面目に取り組んでいましたね。
22時くらいに終わってそれから遊びに行って、朝まで遊んでそのまま美容院出勤とか、後半はあまりに安いお給料だし、東京に染まっていき(笑)「お金大事~」って夜飲食店でバイトやってました。
当時、金城武似の素敵彼がいたのですが、しょっちゅう朝帰りして心配かけていました。結局愛想つかされてふられました。。。
でも頑張れる一番のモチベーションは「ときめき」でした。
ヘアメイクになる!って夢とキラキラ、憧れの東京文化が、私のときめき。

青山の骨董通り沿いの美容室で、2階の窓から、あのコムデギャルソンの川久保玲やワイズの山本耀司なんかが普通に歩いていたから、「わぁ、ananの世界そのもの!!東京ってすごいな~」とときめいた時代でした。
今もそうですけど、ときめかないと続かないですね。
でも美容院は3年で辞めるって思っていたから、あっさり辞めて。
さぁ!ヘアメイクアップアーティストになれる!なんて流石に甘い考え。

どうすればいいのか?渋谷の飲食店でバイトをしながら、そこでようやく業界のカメラマンさんとご縁が繋がり、ヘアメイクアップアーティストの業界に潜り込むことができたのでした。

といっても誰かのアシスタントをするコネもなかったので、自腹で作品を作って、営業に回りました。

当時はまだメイクアップアーティストも少なくて、なんならメイクアップアーティストとスタイリスト兼任の人も大勢いました。
だからたくさん仕事が来ました。

今ジャニーズ性被害問題で騒がれていますが、芸能界ってそれでも有名になりたい人の集まりなんだってずっと思っていました。
ヘアメイクの私にもそんな話しはありました。「減るもんじゃないんだからやらせろ!」ぶん殴ったことありましたね。プロデューサーを。そしたら2度と仕事来なくなりました。その制作会社の仕事もなくなりました。
まぁ、女性軽視の放送作家やプロデューサーが偉そうにしてましたね。

それでも時代は、お祭りだったから、ファッション誌やグラビア、アイドルなどたくさん経験させていただき、調子に乗り、世の中甘く見てました。バブル登り坂で、ギャラも高い。「こんなに簡単に稼げるの?」って。
勘違いした私は、ある撮影で、アートディレクターにずたずたに怒られ、調子に乗るな!と言われ、頭をハンマーで殴られる感覚で、目が冷めるのでした。
そして人生を考え直し、技術と精神修行の勉強に渡英するのでした。

(次回に続く)


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