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きりん

「ひとは、もっと、ききまちがったほうがいい」
「え」
きみは、それこそ、ききまちがえたかのように、たずねかえした。「まちがったほうがいいの?」
「そう。だって、ことばは、ことばになる前は、ただのおとなんだ」
「おと」
「あたまのなかで、知ってることばに当てはめて、はじめていみになる。それがあたりまえになりすぎちゃうと、ほんらい、おとだってことをわすれてしまう」
(中略)
「それぞれのことばには、それぞれの、ひびきやリズムがある。あたまのなかで、ぱっともじにおきかえて、いみにしてしまうから、きこえなくなるんだよ」

『ぼくがゆびをぱちんとならして、きみがおとなになるまえの詩集』斉藤倫 p58

そう言って紹介されたのが、まど・みちおの「きりん」という詩で、それを読んだ「ぼく」は、

「きりんは、きりんになる前に、きりん、ていう、おと、なんだね」

なんてことを言うもんだから、きりんは!きりんになる前に!きりんっていう、おと!!?これを読んでそんなことを感じられるのか…!?とわたしの頭は混乱した。いい意味で。気持ちの良い混乱だった。

それで、「きりん」を声に出して読んでみて、

で、なんとなく分かったような気がしないでもない。

きりん
きりん
だれがつけたの?
すずがなるような
ほしがふるような
日曜の朝があけたような名まえを

まど・みちお「きりん」より抜粋

きりん
という3つの音の組み合わせから、すずと、ほしと、日曜の朝と、どこからの視点なんだろうと、無粋なことを考えてしまう。

だけど結局この詩の気持ちよさに、そんなことを考えたのも忘れて、最初に戻って、声に出して読んでしまう。


なんとなく分かった気になって気持ちよく読むのがいちばん気持ちいい。


最後までありがとうございました。