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麻布十番の面影

 私は大江戸線麻布十番駅が開通するだいぶ前から、六本木ヒルズが完成した数年後まで麻布十番に住んでいた。その期間は恐らく十数年だと思う。

 最初に住んでいたマンションは、マハラジャの向かいだった。
ご存知の通り、駅が出来るまで麻布十番は陸の孤島と言われていた。
近隣駅と言えば六本木か広尾、そのどちらから歩いたとしても、まあまあの距離がある。坂道も多いので歩くのは億劫になる。
とくに何かあるわけでもないのに、とりあえず何でも揃っている商店街。
多様性を受け入れ、様々な人々が暮らし、なんとなく誰もが顔見知りの町が、その頃の麻布十番だった。

 そして麻布十番には小さなパチンコ屋が4軒あった。
ニューマツヤ、パーラー麻布、クラウン、キャラバン。
それぞれ客層も店員も営業スタイルも個性的な店だった。
商店街の入り口付近にあったクラウンは庶民派の店で、ご近所のお年寄りの憩いの場的なポジションを確立していた。
オーナーを始めとする店員さん達もどこか長閑な感じで、パチンコの途中で台を放置したまま向かいの「あべちゃん」で煮込みを食べて帰ってきたとしても、台の状態をキープしたまま打てるぐらいのユルい店だった。

 パーラー麻布は麻布十番の中では最もコンサバティブな店で、一人で一度に打って良い台は二台まで(全国的には一人一台が常識)となっており、店員も無駄口を叩くことは稀だった。
たまに小太りの「部長」と呼ばれる奴がやってくると、店員達は妙な緊張感を醸し出しながらテキパキと仕事をしていた。
ちなみに私はこの店ではCRモーレツ原始人の新装開店で30箱ほど積み上げてモーレツに勝った。

 一の橋にあったキャラバンは通称「半地下」と呼ばれていた。
ファミリー経営のパチンコ屋で、いつも工務店みたいな作業着を着た社長の機嫌が良い時はスロットの設定を5、さらによほど機嫌が良い時には6にしてくれた。
ペキニーズを娘のように溺愛する婿養子は客としょっちゅう喧嘩していた。
キャラバンの看板台は春一番、綱取物語、ミルキーバーなのだが、この当時でもレトロ台で、たまにぶっ壊れてんじゃないか?というぐらいの不気味な連チャンが始まるので、客の間からは「社長が裏で遠隔操作をしている」というのがもっぱらの噂だった。

 ニューマツヤは最もダークな感じの店で、朝から十番の猛者達が集まり毎日が鉄火場だった。
店員もチンピラ崩れみたいなのばかりだし、この店は一人で何台打っても良しとされていて、地元の有名焼肉店のママはゲン担ぎなのか毎朝100万円の札束の帯をピッと切り両替をして、狙いを定めたシマの端から順番にパチンコ台のハンドルに5円玉をかませ、玉貸し機に千円札を吸い込ませて行く。何故そんなことをするのかと言えば、麻布十番ではどの店も開店から大当たり先着10名までモーニングサービスをというのをやっていて、当たれば5000円相当の景品が貰えるのだ。
なので猛者達は何台でも打てるニューマツヤに当然のように集まり、リーチが掛かる度に、その台に集まり、他人が当たれば舌打ち、外れればニタニタしながら自分が打っている台に戻る。というのを繰り返していた。
いつも10人ぐらいしか居ない店内なのに、ほぼ全台(100台ぐらい)が稼働している不気味な状況に、何も知らずに入ってきた一見さんがギョッとするシーンを何度も目撃した。

 最も印象に残っているのは、ヤ◯ザ業界の人達が朝からパチンコ屋の店内で刺青自慢を始めたときで、一人が勢い余ってシャツを脱ぎ、紋々を披露すると、俺も俺もとここぞとばかりに皆が脱ぎだし、上半身裸の6~7名のいかにもな見た目の男たちが談笑しながら自分の刺青自慢について語り始めた時だった。その雰囲気的にはTEDxをイメージしてもらえば良い。
そこにサラリーマン風の若者が呑気な顔をして入ってきた。
裸の男達は一斉に入口付近を振り返る。
一瞬で顔がひきつり、そのまま回れ右をして飛び出していった。
そして一人の男が「朝から会社サボってパチンコ屋なんかに来たバチがあたったんだな」とまるで他人事のように言って笑っていた。

 その中の一人に「二丁拳銃のマサ」という年配のヤ◯ザが居た。
芸名とか役名などではなく、まわりの業界人仲間からそんな冗談みたいな名前で呼ばれていたのだが、理由は分からなかった。
見た目は西田敏行が悪役を演じる時のような感じのおじさんで、よくパナマ帽を被っていた。私は、この人がモーニングを獲得した時には何故だか無言で缶コーヒーをくれるぐらいの顔見知り程度の関係だった。

 ある日、ニューマツヤからほんの少し歩いた喫茶店にランチを食べに行くと、そこに先客で二丁拳銃のマサさんが居て、ポーカーゲーム仕様のテーブルに座っていた。私は軽く会釈して、カウンター席に座り、おしぼりで手を拭きながら、一応メニューに目をやった。
おもかげのメニューはトースト、ナポリタン、日替わり定食など、喫茶店の基本形ともいえるものが大抵揃っている。
メニューを見たところで、いつも決まったものしか注文しない。

それは、ドライカレー。
そして、この喫茶店の名前が「おもかげ」これが表題の件である。

 ドライカレーというと、どのタイプを思い浮かべるだろうか?
私の常識では油で炒めたカレー味のごはんが平皿に盛り付けられ、レーズンがパラパラと散りばめられたものがドライカレーである。
誰が作ったとしてもクオリティがバラつく筈もないシンプルな料理なので、いつ食べても安心の料理である。
挽肉や野菜をカレールウで炒めたものがライスの上にドサっとかけられたやつはキーマカレーだと思っていたし、あれをドライカレーだという人はオシャレなんだなと思うものの、じゃあキーマカレーはどれですか? と、逆に聞いてみたい。

その日もドライカレーを食べながら、テレビでお昼のワイドショーを見ていた。すると、珍しくマサさんが私に話しかけてきた。
「お兄さん、ここよく来るの?」
「たまにドライカレーが食べたいときに来ますね」

すると、頼んでもいないのに麻布十番物語をし始めた。
「ここらへんは、昔からうちの業界が多い町なんだよ。最近は平和になったけどね、昔はドンパチもあったんだよな」
ドンパチって任侠映画だけかと思ったら本当に言うんだな。と思った。
「この店は昔からあってな、俺も若い時から来てる。ママも昔は美人だったんだぜ」
これも映画で聞いたことがあるような台詞だった。

かぶせるようにママが話し始めた。
「マサさんね、昔は怒ると手がつけられなかったのよ」
これも日活か東映の映画で見たことがあるやりとりだ。
私はこれまで、このママとも「ドライカレーお願いします」「ごちそうさま」ぐらいのコミュニケーションしか取った記憶がない。
なんだろうか、この流れ。
滅多にない事だし、面白くなってきたので私は
「へー、どんな風に手がつけられなかったんですか?」
と聞いてみる事にした。
「ここらへんには殆どの組があるのは知ってるだろ? 昔はしょっちゅう抗争があってな、目があっただけでもすぐに始まるんだよ」
何が始まるのだろうか? 
知らずに呑気に暮らしていたが、なんという恐ろしい町なのだと思った。
いったい「二丁拳銃のマサ」は怒るとどうなるのだろうか?
俄然興味が湧いてきてしまった。

「目が合うと、どうなっちゃうんですか?」

うっかり聞いてしまった。
すると
「あそこの痕、見えるか?」
と言って店内奥の白い柱の上の方を指差した。
「昔、この店でも、あってな」
と言いながら、マサさんは流れるような仕草で両手を腰のあたりからスーッとあげ、こまわりくんの「死刑!」のように、拳銃を構えるポーズでそこに立っていた。まさに二丁拳銃だ。
彼の指先と指した方向の柱を脳内点線で繋いで行くと、柱には穴のような痕が2つ刻まれていた。
銃痕だという。
なんでもこの店で喧嘩になった際に相手を威嚇するつもりで「ぶっ放した」のだそうだ。
まるでファンクの帝王ジェームス・ブラウンだ。
思いがけない展開と話に夢中になってしまい、ドライカレーはすっかり冷めていた。
だがしかし、冷めても食えるのがドライカレーの素晴らしいところだ。
調子にのって
「他にないんですか!? ベンツから組長が出てきたところを襲うとか」
そう聞くと、

「ねぇよ」

マサさんは、急にヤ◯ザの顔になった。
私は残りのドライカレーを急ぎ、完食し、店をあとにした。

暫くして、最近姿を見かけないなぁと思っていたところ、焼肉屋のママから「肝硬変で死んだ」という話を聞いた。
おもかげの痕は、まだそのままなのだろうか。

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