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フリック操作のままに

筆やペンのままに書くという言い方があるが、今はスマホでフリック入力しているので、このタイトルとしました。

気取った言い方では、つれづれなるままに、というような意味のつもりです。

昨日の行動、考えたことを順不同にフリックします。

行動としては、チャリンコで図書館に行って本を借りたことです。

神戸は坂道が多くて、チャリンコ乗るのは中々厳しいのです。

以前ならば、妻の電動自転車を借りていたのですが、ある日バッテリーのセットに手間取ったことがあって以来、面倒くさくなって借りるのを止めています。

運動のためと言い訳しながら、必死にペダルをこいでいます。

去年引越しする前に、多少の預金があったときに電動自転車を買っておけば良かったと今になってチョット後悔している。

10年ぐらい前に購入したチャリンコですが、まだまだ元気に作動しているので、捨てるには勿体ないということです。

さて、図書館で借りた本は、メイヤスー著『有限性の後で』でした。

マイナーな哲学書なのでひょっとすると無いかも知れないと思い専門書の本屋まで行くつもりでいました。

ところが、ちゃんとありました。大倉山図書館と神戸では一番大きなところなので、舐めてはいけないです。

とは言っても、ポールリクールやフッサールの一部の本がなかったので疑われて当然だと思っている。

メイヤスーのこの著書を読みたくなったのは、YouTubeで解説していた番組を観たからです。

15分間の長さを13回も詳しく解説していたが、メイヤスーによるフッサール理解が腑に落ちないので、実際に手に取って確認することにした。

実は、竹田青嗣著『欲望論』でメイヤスーにかなり触れていたので、もはや知ったかぶりの状態だった。

竹田はメイヤスーに対して一定の評価をしつつも、下記のように批判している。

《メイヤスーの「思弁的実在論」の〝動機〟、何らかの「絶対的なもの」の存在を論証することで、社会的批判の正当性の新しい根拠を作り出そうとするその動機は、哲学的にきわめて真摯であり、かつ正当である。

しかしその上で、われわれは、思想の「正当性」の根拠を新しい実在的「本体」(実在としての世界の本体)に求めるメイヤスーの試みは、原理的に不可能であり挫折の運命を免れない、と考える。》
(欲望論 第1巻 P17)

YouTubeでのメイヤスーの解説は3年前に配信されたものです。

その後、フッサールの解説も行っていたが、2回だけだった。

難解なメイヤスーを13回も配信する力量がありながら、フッサールについては判断停止という言葉に引っかかっていた。

竹田が言うには、フッサールは次のように述べているということです。

「自分の本は思い込みが強い人には理解できないはずだから、手に取らないで下さい」と。


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