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「自己了解」とは

「自己了解」とは「ほんとうの自分」についての理解ではない。自分自身を、より適切な仕方で理解し直すことである。

大リーガーの大谷選手を見ていれば良く分かるが、彼は、突出した身体能力で本場の大リーガーでさえも超越した存在である。

ところが、彼のばあいは、身体能力だけではなくて、人から愛される資質と能力や才能をもっているために、野球愛好家だけではなく、野球のルールさえ知らない人たちからも応援(承認)されている。

これは不公平とも思える現実だが、これに文句を言うことはできない。

他者との関係でなぜかうまくいかない人は自分自身と折り合っていないことが多く、自己了解を試みてみる理由があるわけだ。

人間には、誰もが自然に持っている主観的な自己像と、自分がそう思っているかぎりでの「他者からみた自己像」がある。

この二つの像のあいだに大きなズレを感じない場合は、人は自己について不全感や不安感をもたない。しかし、誰でも大なり小なりこの間にズレを感じているものである。

自分で自分を追い込んで考えてみても、よい自己了解は得られない。だから、不全感か不安感をもたないためには、特定の他者だけではなくて、多くの他者か見た自己像に頼ることになる。

複数の「他者の自己像」の違いの中から「自分は他者からどのような人間」であるかをつかみ取るしかない。つまり、他者の声をよく聞きとることが重要であるということになる。

しかし、他人の声はつねに万能というわけでもないし、他人の声だけを頼りにしていると自分の主体が危うくなる。結局、他人の声を最終的に判断するのは自分なのである。

ここで注意すべきことは、他人の声は、つねに「正しい」とは言えなくても、つねに「正直」な声ではあるということである。

確かに、他人の声を聴くと言うのは、耳の痛いことであり、できれば信じたくないことでもあるが、相手が、明らかに敵意を持っていないかぎりでは、正直なこと言っているなとは感じる。

とはいえ、性格によるだろうが、中々、相手が明らかに嫌がるようなことは、なるべく口にしたくないという感情のブレーキも働くものである。目上、上司の人たちに対しては、特にそうなる。

「歯に物を着せぬ」性格の人がいて、相手かまわず、ズバズバと物申す人を見かけることはあった。凄いなと感心することはあっても、こうした人の態度をとうてい真似ることはできなかった。

物申したからと言って、相手の人が折れて納得するということは、ごく稀なことであり、大喧嘩となるのがオチだった。

ロシアとウクライナ、ハマスとイスラエルの戦争は、どちらも、我が国が正義なのだと頑固に言い張っているからであるように、大声をあげたからといって、戦争や喧嘩がおさまるわけでもなくて、永遠に戦いが続くだけである。

ここで、ヘーゲルは「自由の相互承認」という概念を提示するのであるが、今回のテーマ「自己了解」を逸脱するので、いつか、機会があれば、この概念をとりあげたいと思います。

参考図書:竹田青嗣著『哲学ってなんだ』




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