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西田幾多郎の読書法について

西田幾多郎氏は、初めてアリストテレスの『形而上学』を読んだのは、30歳過ぎてからだったが、よく分からなかったそうであり、50歳近くになってから、ようやく自分に生きた読み物となった、と告げている。

書物を読むということは、自分の思想がそこまで行かねばならない。一脈相通ずるに至れば、暗夜に火が打つが如く、一時に全体が明となる、と言うのである。

偉大な思想家に思想が自分のものとなる、そこにそれを理解したいといい得るようである。

私はしばしば若い人々にいうのであるが、偉大な思想家の書を読むには、その人の骨というものを掴まねばならない。そして多少とも自分がそれを使用し得るようにならねばならない。

偉大な思想家には必ず骨というものがある。大なる彫刻家に鑿の骨、大なる画家には筆の骨があると同様である。骨のない思想家の書は読むに足らない。

西田幾多郎著『読書』P7

西田は、カントやヘーゲルといった著名な哲学者の全集というものを購入したことはないと述べている。

決して、この方法を人に薦めるわけではないと言いつつ、全部を読むというやり方で、その思想家の骨髄に達することができれば、幸いであるが、得てして、主観的で独断的な解釈に陥りがちとなることを西田は憂えている。

読書は何処までも言語のさまざまなでも正確に綿密でなければならない。それはいうまでもなく万人の則るべき読書法に違いない。それかといってあまりにそういう方向にのみ走って、徒に字句によって解釈し、その根底に動いている生きものを掴めないというのも、膚浅(ふせん)な読書法といわなければならない。精密なようでいてかえって粗笨ということもできるであろう。

西田幾多郎著『読書』P11

その他、西田が指摘する読書法をピックアップします。

  • 一時代を築いたような偉大な思想家、大きな思想の流れの淵源となった人の書いたものは読むべき。

  • ただむつかしいのみで、無内容なものは読む必要はない。
    【私見:無内容かどうかは、素人には判断できないという点は、置いておきましょう。】

  • 偉大な思想の淵源となった本を読むといっても、例えばプラトンさえ読めば良いというものではない。

    在来の思想が行き詰まったとき、一つの思想に凝り固まってしまうと、他の可能性のある道をふさいでしまうことになるからである。

    行き詰まったときにすべきことは、一つの思想を超えるために、この思想の方向に進むのではなく、元に還って考えて見ることによらなければならない。

ある時代をリードした人物の書物で、特に、時代の荒波にのまれても、生き残り続けてきた古典は、読むべきでしょう。



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