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ユーチュバーについて

ここ数日、プログラミングPythonについてのYouTube動画の解説を聞いていて、哲学書の解説者と似ている人がいると思った。

声質が必ずしも似ているわけではないが、声のトーン、テンションの上げ方、決まり文句などに同一性を感じた人がいたということです。

初心者に理解してもらおうという熱意がそうした類似性を生むのかも知れないです。

その熱意は感じるが、ある人に特定して学んでいると、どうしても痒いところに手がとといていないというもどかしさがあり、ストレスが溜まるものです。

だが、ある番組のタイトルを観たことで、解決することがあった。期待していたわけではなかったが、「そう知りたかったのは、それなんだよ!」というものにぶつかることができた。

具体的には、PyCharmというツールの説明でした。ある人の解説は、かなり丁寧で理解しやすいのだが、締めのところの形が違うので、間違っていると思い込んでいた。

その後、別の人たちの解説も聴いたが、同様だった。

そして、前述した人は、まさに知りたかったことを解説していたので、一気に解決しました。

意見というものは、色々な人から聞くべきだという、何だか教訓めいたことになりました。

プログラミングといつのはゼロか1、つまり有り無しのハッキリした世界であり、数学化、数値化を極めており、絶対的な存在です。

哲学の場合は、そういうわけにはいかない。何も哲学だけでなくて、対話、論争する場合でも同様だろうと思う。

あ〜だ、こ〜だと悩むことばかりで、鬱々とするものです。

そんな時は、プログラミング、数学、物理などの科学の世界に触れると、頭の中が整理され、もやもやとした霧みたいなものが解消されるという効果があることを改めて知りました。

そのせいなのか、今朝、哲学解説動画を聴いてみても、ストレスはなかった。前回より少しだけ理解できたのかなという感じです。

科学と哲学のことを書いていて、カンタン・メイヤスーの解説をしていたユーチューバーの人の話しを思い出した。

それは、カントのことです。

カント以前までの哲学は、対象を主にしていたが、カントは人間の認識を主とするようにした。これを「コペルニクス的転回」と言われている。

これに対して、メイヤスーは「プトレマイオスへの反転」と呼ぶべきものであると主張している。このことについて、『有限性の後で』の訳者千葉雅也氏の説明を引用します。

一般に、近代科学における自然の数学化=ガリレイ主義は、自然を私たち から「分離可能」なものとして扱うことを可能にしたことが確認される。 近代科学におけるコペルニク ス=ガリレイ的転回は、この惑星が不動ではなく、太陽の周りを回っているという事実の認識であるの みならず、実在に対して私たちの思考を決定的に中心するという転回であった。

ところが、奇妙なことにカントがその批判哲学 (超越論哲学)を「コペルニクス的転回」と自称した際 には、意味がまるで逆になっているのだ。 カントの場合では、私たちの思考を不動の基盤として、そこ に世界を従属させたのであるから。だからそれは、むしろ「プトレマイオス的反転」と呼ばれるべきで ある。それ以来哲学は、自然科学の言明を文字通りに受け取るのではなく、自然科学よりも「深い」意 味の領域である〈世界への関係を云々し続けるようになってしまったく世界への関係 の発生以前以後のリアリティを端的に認めるのではなく。

カントの時代にあっては、すでに天文学のガリレイ、物理学のニュートンが台頭していたので、それに対する反動として、カントは人間の認識を中心として思考するようになった。それ以来、哲学者の一部を除いて、ほとんどの人々はこれに準ずるようになった。

科学は、天動説から地動説に変更したことによって、脱地球中心説を唱えるようになったが、哲学は人間中心主義から離脱できないままでいるというわけです。

とはいえ、科学万能を誇る説も、様々な所で、綻びが目立ち始めているのであり、自然と人間の一方だけに加担するのは、いかがなものかというという思いもあります。

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