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君が必要とする物語

今日、信じられないくらい暖かかったですね。

明日からは信じられないくらい寒いらしいです。

もう何も信じられない…。

どうもこんばんは、火曜日のnote更新です。

ご存知の通り、私は読書が好きです。幼少期から図書館に通い詰め、ありとあらゆる物語を読んできました。ここにも何度か書いたけれど、幼少期のお気に入りは以下の本です。

ロアルド・ダールの本を大人になってから読み返すと、子どもの気持ちに驚くほど寄り添ってくれているのが分かる。私の周りの大人は基本的に親切だったけれど、子供というのは大人にうっすらと不信感を持っているものだから(そうですよね?)、”大人なんて大したことないよ”とポンと肩を叩いて教えてくれるような、そんなロアルド・ダールの語り口が大好きだった。

もう少し大きくなってからは、青い鳥文庫を読んだりした。

夢水清志郎シリーズとかね。振り返ると、この頃からオタクの才能があったんだなあ…。痩せ型で精神年齢が低いタイプの天才こと夢水清志郎、いかにもオタクが好きな造形である。はやみねかおる先生には頭が上がりません。

今でこそ哲学書や社会学の本を好んで読むけれども、私の人生の大半を占める読書歴は小説・小説・小説である。私は精神的な発達が比較的ゆっくりしていたから、周りの子どもたちとのコミュニケーションがうまくいかないこともしばしばだった。他人の気持ちを理解するために小説を読んでいたと思う。小説は自分のペースで読み進めることができたから、現実世界よりもずっと親切に感じられた。

そんなわけで、親になった私が真っ先に子どものためにしたのは、絵本を買うことだった。これは”絵本をたくさん読む子になってほしい”という願望の現れではなく、絵本を読まない人生など考えられなかったからだ。

結果として、子ども部屋に1台、リビングにも1台、子ども専用の本棚がある。

あるのだが。

5歳児は私が読み聞かせをしない限り、滅多に絵本を手に取ることはない。夜寝る前の読み聞かせは習慣になっているが、それ以外のタイミングで絵本が手に取られることはほぼ0だ。

これにはびっくりした。絵本を読まない人生って存在するんだ?!という新鮮な驚きがあった。

なんか、よく聞くじゃないですか。”家に絵本がたくさんあれば、自然と本を読む子になるよ…”とか、”お母さんが本を読んでいる姿を子どもに見せれば、自然と読書習慣は身につきます”とか。

多分、あれ、嘘ですね。

我が家にはちょっとした図書館くらいの量の絵本があるし、私も四六時中本を読んでいますが、それでも読まない子は読まないです。

私にとって読書は呼吸するのと同じくらい当たり前のことだったから、子どもに”読みなさい!”などと言ったことはない。そもそも、読書なんて無理強いされてするようなもんではないし…。

そんなわけで、読み聞かせを一度したきり、手に取られる気配のない絵本が自宅に大量にあるが、まあそういうタイプのインテリアだと思えばなんということもなかった。

なかったのだが、数日前にこういう本を買った。

これに対する食いつきが非常に良かった。今まで数百冊の本を買ってきたが、ベストの食いつきぶりである。放っておいても勝手にページを開き、ずっと読んでいる。朝食が終わって幼稚園に行くまでの短い時間にも読む。今朝も、”帰ったら続きを読む”と宣言し、途中のページに付箋を貼ってから幼稚園に出かけて行った。

もしかすると、物語には興味がないけれど知識を頭に入れるのは好きなタイプなのかもしれない。こういう本の楽しみ方をする子どももいるんだなあ…と私はびっくりしたのだった。てっきり、私のところには物語好きの子どもが生まれると思っていたものだから。

私の周りにいる友人にも、幼少期同じような”知識を得る”系の読書しかしてこなかった子がいる。でも、その子は大きくなってから物語を読むようになり、今は作家になって、世の多くの人を楽しませる物語を自ら紡いでいる。

物語を必要とするタイミングは、人それぞれなのかもしれない。私の幼少期にはたくさんの物語が必要だったけれど、今はそうでもない。5歳児が物語を必要とする時期は、もっとずっと先なのかもしれない。いつ物語を欲しても大丈夫だよ、我が家にはたくさんの本があるから…そんな気持ちで、ゆっくりと待ってみようと思う。

物語を死ぬまで必要としない人生というものも、それはそれで幸福なのだという気がする。

Big Love…