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オタクの自分を客観的に見てしまう癖

今日も一歩も外に出ずに先日購入した「Snow Man LIVE TOUR 2021 Mania」をBGMに部屋の掃除や日記をつけていた日曜日。日常の何をするにも推しの存在を感じていないとテンションが上がらない。

さて、今日はタイトル通り「オタクの自分を客観的に見てしまう癖」について語ろうと思います。

忍のように生きていたのに「推し活」なんて言葉が流行ったから

近年の「推し活」ブームのおかげで、アニメや漫画が好きなことは隠さずに曝け出してもいいんだよ!素敵な趣味だよ!みたいな雰囲気が出始めて「オタクであることは公表しても恥をかかない」みたいな風潮が出てきた。

そんな雰囲気に甘えて、初対面の人に印象を残すためにアイデンティティであるオタクを全面に出した自己紹介をするとやっぱり滑る。「あ〜なんか流行ってるよねアイドルとか」みたいな。やっぱり一枚壁があるリアクションを取られて何が多様性の時代だよ!やっぱりオタクに対する偏見あるじゃないか!と毎回後悔する。

「好きなものを好き!」といえない世界はクソだと思うし、別に興味のない人に受け入れられなくてもいいのだが、「推し活」をしたことがない人はオタクに対して自分以外にお金を使ったり積む行為が理解できないらしい。
理解できない行為を冷たい目で見られるのが辛い。
自分の趣味を否定されるのは別にいいのだが、私のせいで推している対象まで彼らにとっては「浅い物」として捉えられている現象がただただ悔しい。

だから素晴らしさを理解してもらおうと熱弁すると引かれるし、そういう行為をするから「オタクは周りが見えない奴」と思われてしまうんだろう。
そもそも興味のない人に推しの素晴らしさを伝えること自体暑苦しいのか?でもこんなにも素晴らしいのに・・・知ってもらいたい・・・という欲望が抑えられない。

「推し活は素晴らしい」という社会の風潮と「オタクは痛い」という非オタからの冷たい目線とのギャップが苦しい。

好きなものを好き!と言いたいが、私は冷たい目線に耐えられない臆病者なので本当に好きなものを興味のない人達に伝えられない。
本当に大好きだから、否定されるのが怖いんです。

オタク友達とオタクしている時は自分のことを客観的になんて見ずに、全力で叫んで楽しんでいる。すげー楽しい。
でも、そんな楽しかった事・私が熱中していることを会社の人や浅い友人に言えない。客観的に見たらやべーやつって思われるって思われるってわかっているから。

「普通」から外れないために

多様性だなんだと言っているが、まだ「普通」から少し外れると受け入れられなかったり否定される時もある。
社会というものは人の集合体から生まれるため、全世界の人が個人の好きを批判しない人になったらもう少し生きやすくなるのかもしれない。

だから私は人の趣味を笑ったり引いたりすることは絶対にしないと心がけている。
どんなに理解できないものでも「ファンが存在する」という事は惹きつけられる魅力があるのだろう。いつか私もハマる時が来るかもしれないし。

人の目なんて気にせず好きを謳歌しろ!と言われたとて、性格なのでしょうがないのです。まあ、高校生の頃に比べたら少しだけ言えるようになったと思うけど。
あと、そんなに目立ちたくないので今日も「普通」を演じる。

「普通」じゃない「個性ある人」に憧れる話はまた別の機会に。




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