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借金返済途中で過去のトラウマと向き合うことになった話


※サバイバーの方や、フラッシュバックなどある方は読まれるの若干注意です。

いわゆるマンネリ化から始まった。

ついに返済アカウントを初めてから歳を取った。

この歳までには転職していたい、引っ越していたい、絶対にこういう環境にうつりたい、と思っていた歳だったので、
思ったことはすべて大成功していたといえる。

引っ越したて・それから数カ月してからアカウント開設したての頃は、返済があるとはいえ、新環境を手放したくない一心で、がむしゃらに、何もかも新しいギリギリの生活をそれなりにかなり楽しみながら、節約を頑張っていた。

そしてある程度、当然慣れてくる。
電車で行けそうな距離の業スーは全て行った。大体のスーパーに置いてあるものは業スーより高いが、近くで妥協点を見つけられるようなものも発見してきた。もはやスーパーのネット注文の方が多い現状。
いわゆるマンネリ化、だ。

もちろん、借金返済の余裕が若干出来てきたこともある。アカウントを初めてから、無理しないという目標の元、リボ残高約70万(+50万以上の手数料…)程すでに返しており、あとはローンで払うもののみだ。

ローンも106万程残っているので、別に余裕という訳でもない。早く返してしまわないと毎月の手数料もエグい。それでも、以前と比べたらかなりマシな生活になった。

前に書いた「縁を切ったあとの話」でも書いたが、
引越し後に遊びに来てくれた人の希望で縁切り神社に行った。私も昔から行ってみたかった所だ。
そうしたら命よりも大切だった数十年続けてきたSNSで持った趣味の関係のほとんどを一度切る事になり、そのお陰でそれらを守るために割いていた時間全てが解放され、
縁を繋ぐためと血眼になっていた余計な物や、買わないと死ぬかもしれないと思い込んでいたものも買わなくなり、
生活費の負担軽減に直結し、自分の事を考えられる時間が大幅に増え、返済自体本当に楽になって驚いたのだった。

今よく考えれば、自分が相手との関係を持っている時に、安心感を得ていた相手の特徴がある。
それぞれ細かな違いはあるが、それは、
「相当抑圧された家庭環境を持ち、それに気づかないまま、趣味をしているような人」
類友とは言うが、以前自分と仲良くしてくれた相手というのは、結構な確率でこうだったと思う。
よく観察して思い返してみると、一見全く問題なさそうな、自分より年上で自立した大人のような人でも、
言葉の諸処におかしな所(相手に羨ましい部分があると急に高圧的、モラハラ的になったり、思い込みが激しかったり、何もかも絶対に誰かには負けたくないという闘争心や意地を張ってきたり、自分以外の友人の話に過度に関係が心配になり嫉妬する)がある。
人間だったら少なからずある事なのかもしれないが、
「親にそれをされてきたのだな、と感じるほど子どもっぽい」のだ。なぜそう思うかと言うと、私にも思い当たる部分が激しくあったから。

そもそも趣味の関係というのも、「子ども同士の関係」と言っても過言では無いもののような気もするが(大人の趣味というのもあるのだろうが)。
若い時から憧れていた相手がそのように、現在進行形で心に傷を抱えている子どもっぽかったり、あまりにもそういう人ばかりだという現実に、誠に勝手だが閉口した。
お節介な自分は、彼らには見えない苦しみの渦中にいることを知っていて、それを助けようとしたり指摘せずにそれらを全て放置しておく事は、今の自分にはストレスが溜まりすぎてできないと思った。でも彼らの問題にズケズケと入り込むのも、あまりに失礼すぎることもわかっていた。自分の中にだってズケズケと入り込まれたくないのと同じだ。
かなり衝動的に離れたとは思うが、離れた理由のひとつでもあったかと思った。

そういう、いる環境が穏やかで、戦場から離れており、心に余裕が無いと俯瞰できなかったことが、ぽろぽろと考えられるようになってきた。
なんだ、自分から無意識にそういう苦しげな相手を選んできていたのだなと思った。
長いこと生きる理由にしていた、縁として本当に助かっていた部分が多々あった。でもあんなに大事だと思っていたのに、今、離れた事でこんなに安心するのは、生きるために必要なもののくるしさとやむを得なさのバランスが変わったからだ、と。

暫くは外とのつながりの、そういったことを頭で処理できたことを嬉しみながらも、さあこれからどうして行こうか、借金返済が終わったらもっと人と関係を広げていけるだろうか、などと思っていた。

京都に行った時の同じ人からの情報で、他の大きな神社に1人で急に行くことになる。
その時どうしても行った方がいいような気がしたからだ。

なんの前知識もなく相当歩きでウロウロしたので行ったあとの疲れや、プラシーボ効果、というのもあるのかもしれない。行った時は本当に良かったな、と思ったが、帰ってきた直後から、それはもう色んな事で精神も体調も最悪になった。

きっかけはずっと前からあったと感じるが、自分が友人相手に求めている事の汚さ理不尽さを強く自覚する事になる。それが根本的にどこから来るものなのか、それが分かればこの感情もどうにかなるのではと考えてみたところ、過去の、親や、大人からされたトラウマから続く、清算出来ていない、数十年溜まりに溜まった不満と不安からだと突き止めてしまう。
わかってからというものどうにかして鎮めようと格闘するが、それらからくるものを今の自分で、頭でわかっていても大切な誰かを恨むような気持ちを抑えきれそうになかった。

自分の衝動性をなまじ理解しており、言葉で傷つけたくないからとにかく連絡の取れるものを一時的に遠ざけた。大切にして行きたい友人にこんな気持ち悪くぐちゃぐちゃな感情を向けてしまう自分の構造が本当に嫌で、友人と自分の本当の幸せを願うならと縁を切る事が一番いいのではないかと頭をずっとよぎっていた。頭で分かっているのに、どうして、酷い、頑張って生きてきても何も意味はなかったと、自分と他人に向ける憎しみを制御できない己が悔しくて苦しくて勝手に涙が出る。
家で何も出来ずに泣きながらぐったりとして、何も考えたくなく、起きて泣いて、泣いて寝て起きてを繰り返していた。時間感覚がほとんど無かった。

しかも、そんな中放置していたそれなりな趣味の形跡のある他のSNSで、変な異国の言葉を喋る相手に一見善意的だが一方的にしつこい絡まれ方をされ、最終的にはこちらの言葉で収まったが、かなり恐ろしくなり他人にも迷惑が及ぶのを考え、ログも他で辿れそうでないもの以外は消し、唯一繋がっている相手も消した。実質畳むのを余儀なくされたと感じた。いわく付きのアカウントではあったので、いい機会ではあったのかもしれなかったが、交流はほぼなくとも自作の気に入ったものを沢山置いていた、時々見に来ると嬉しくなる所だったので、それなりの喪失感はあった。

起き上がれない、眠剤を飲んでも毎日朝方まで寝れない、体があまりにも重すぎて、いつもの作業的な仕事は出来るが何かを新たに考えなければならない部分のことが全く出来ない日が何日も続いて、流石に困り果てていた。
多分この症状は鬱かなとぼんやりと自覚していたと思うが、考える以外の仕事は出来ていたのと、この状態になった時どうしたらよかったか、まで頭が及ばなかった。家に食べ物が何も無くて、おなかが減ってどうしようと思って、そのまま寝る、等。
このあたりでもうかなり節約等という所が頭から飛び、かなり仕事優先生命優先のお金の使い方をしていた。つまり自炊する気力もなく、献立も、買うものも上手く考えられない中、いい食事をすれば仕事する元気が出るのではないか……?と原始的な期待をして宅配を利用し、食費がいつもの2倍以上になった。実際の所、それで精神を保てていた所はあると思われる。
(ので、寝れないしこれは精神的に本当の本当にまずいと思った時に、まずはもう3000円くらいなら借金してでも、好きなものを食べてみて欲しい。栄養のあるものや炭水化物が取れそうならもっといい、消化に血を使って眠くなるから。読んだことを思い出せるかわからないが、ごはんさえ食べてればとりあえずはなんとか嵐をしのぐことができる。)

心は2週間以上、これ以上無いくらいずたずただったが、己と己の過去の事で凄まじく傷ついていたところに別の強い傷を付けられたところで、謎だが少しだけ正気に戻り(おそらく防衛本能)、人と話が出来るくらいになった。
多分、今までの症状の経験とか、自分のいる立ち位置が言語化できていたからというのもあり、ここまではかなり早かったと思う。人によったらこれが5年とか10年とか20年とか続くのが、ざらに起きる。本当に地獄の苦しみだ。己も以前、そうだったから。

それからリハビリのように少しずつ友人とも話せるようになり、気づいた直後は冷静な言語化が厳しかった過去の部分を紐といて行くことになる。SNSで垂れ流すことで話しながら言語化し、わかって行ったのがほとんどだ。

自分は虐待を受けていた、と初めてそこで自覚した。

言い換えれば、今まで生きて色んな人間をみてきて、マトモとされる人間が、マトモとされる人間を育てようとした時にとる行動では無い(少なくとも自分は)ことを、自分を凄まじくされていた。しかもそれを彼らは「自分は正義で世の中の人間よりもよほど正しい」と思ってやっていた。

色んなSNSで、「こんな虐待をされていた」「サバイバー」というものを、タイムラインで目にしない日はない。悲しくもそのくらい身近なもので、その中には自分より余程酷い目にあっているのでは、と思う人も多くいた。

だが、それと、自分の傷を比較して無き者にするのは、全く関係の無いことなのだということを、ほんの、ほんのやっと理解した。

親から、その周りの大人から、幼少期から長らく今まで、理不尽に傷つけられてきていた。生きているだけで常に毎日毎日毎日毎日抑圧されて、悪口を言い家での居場所を失わせ、世間への見栄のみで生かされ、「こちらが一番苦しい思いをしている、お前だけだと思うな、誰が食わせてやってると思ってるんだ」「普通の家庭と同じようにこんなにしてあげてるのに狂ってるのはお前だ」と言われ、本当にそうだと思っていた。
こんなに苦しく感じてしまう、こんなに良くしてもらっているのに、毎日毎日死にたいと思ってしまう自分が、毎日毎日出来なくて怒られる(ここは自閉等の特性が関わっていると、数十年後に気づく)自分が悪いのだと本気で思っていたのだ。
だから、このような最低な自分だとしても少しでも彼らに報いねばと普通を持たぬ頭で身体で泣きながら努力してきた。同時にそれだけ苦しいならなぜこの世にこの命を作り生かしているのか、不明でならなかった。自分という存在は育て親にとって、その大人たちにとって、世間や恐ろしい親族への免罪符、捌け口、言い訳、生贄だったからだ。

私の傷を見て見ぬふりをさせようとしていたのは誰だ?
紛れもなく、自分だった。
そしてそれは、「あなたは他と比べて全く可哀想では無い」「こんなのよくある事だ」と、幼少期から洗脳されていたから。

思えば家に、本当に自分のことを考えてくれる、言葉を聞いてくれる人間は、1人もいなかった。いたのは、何も分からない子どもに餌を与えて、お前を愛しているからお前は恵まれているのにその恩に報いない最低な人間だと洗脳し、集団の生贄として日々の自分のストレスのはけ口にする大人達。その子ども。その子どもも悲惨ではあったと思う。私はその子だけは自分のような目には合わせたくないと勝手に思っていたが、毎日毎日大人から私はこういうゴミみたいなやつだと言い聞かされていた。それは後になってわかったことだ。
自分は狂っていたと思うが、実際そのような状況に置かれて狂っていない方がおかしかった。その彼も後に狂った。

被害に気づく、というのは、なかなかに体力を使うことだと思う。

性被害であっても、まさかそんなことをされているとは気づかない瞬間は、多少の違和感が…という状態で
しかし性的な行為を同意なしに強要されていると気づいた時、刺されるように襲いかかってくる嫌悪感、凄まじい恐怖感、相手に対する憎しみ、怒り、そういった物が次々と自分に襲いかかり、そういうショックを抱えながら生きなければならないというのは、実は尋常ではない。

そういう目にあった事がある人でさえ、気づかないか蓋をしていた期間があり、数年後に気づいて向き合う時がくる、というのは、
恐らく、それまで自分の心を守らなければならないことに精一杯で、
「心身ともにやっと安心できるところまで来た」と思える所まで来ないと向き合えないのでは無いか、とも、今回傷が開くことになって思う。

しかも、……往々にして、そういう目にあった人間が、「その人が本当に幸せになれる相手」と出会い、関係を繋いでいくことは本当に…困難で、奇跡のような事だと思う。
どうしてかと言えば、自分の被害に気づかないうちから、平和な家庭で育った人と共にいると、言語化が難しいとは思うが酷く惨めに思えて、しばらくは違和感を感じてしまうことがあるだろうから(その限りではない人も、いっぱいいると思うけど)。
自分は親から愛されていたと感じるには、自分を酷い目に合わせてくる相手に愛を囁かれる事で安心する事の方がきっと多いからだ。

これは本当に酷いことだと自分の感覚では思うが、今まで身近で知った人間関係の体感として、そういう風に思う。それらは……そのような至極見えにくいハンデであり、自分でどうにかするという事は本当に難しいレベルのものだと思う。つまり、言い換えれば障害だと感じた。

どこかで言った気がするが、自論として、障害というものは、「それをやろうと思うと、やれる人にとってはなんでもないことなのに、それが出来ない人にとっては尋常じゃなく酷く疲れるもの」だ。

例として分かりやすいものが、

足元に落ちたペンを、"屈んで"取る作業があるとする。

五体満足で健康、精神的にもさほど問題のない人間が、それを屈んでひょいと取るのはなんでもないことで、問題ないだろう。

多少肥満等であっても、風邪をひいていたとしても、少し筋肉痛だったり寝不足だったとしても、それらの人がよっこらしょ、と屈んでとることは、かなりの負荷もなく可能なはずだ。

だが、生まれつき足を曲げると激痛が走る人間ではどうだろう。
落ちたペンを"屈んで"取ることは、もしかしたら可能ではあるかもしれない…が、それをすることでその人間は激痛を伴い、非常な苦痛を感じることがあるかもしれない。
その後、一生立てなくなる程のショックがあるかもしれない。

この困難の部分が、障害というものだ。
つまり、障害というのは、
「大勢の人にとってはそうでも無いのに、苦痛を伴う困難さが生まれつきもしくは後天的にガチなもの」だと思っている。
だから、基本的には、屈んでとる、より相当面倒なことだったとしても「他の方法」をとらざるを得ないし、「他の方法」さえどうしてもの時は、適材適所の相手にお願いすることになったりもする。

それが"見えるところ"にある人は、他人から見て多少はわかりやすい。説明もしやすい。

だが、パッと見て分かりにくいところにある困難は?
頭であったり、体の中のことだったり、心の事だったり。

それらがある事に自ら気づいて、それらを「伝える」ことからでないと、そして伝えたとしても、理解は示されず、協力や回復も困難な場面は、ものすごく多くあるのではないか。

私の場合だが、幼少期からトイレットペーパーが無くなって新しいものに替えたあと、その芯を無意識にトイレに残してしまう、というのがあった。
その度に何度も怒られる。
でも怒られたい訳では全く無く、100回トイレットペーパーを替えたらその後に100回芯は捨てているつもりだったのだ。
怒る方は、自分が嫌いだから芯を残すのだと言う意味不明な(今考えれば完全に病院にかかって欲しいような思い込み)勘違いをする始末。
その時点で、どうしたら芯を忘れないか共に考えるということが出来ていたら良かったのかもしれないが、育て親にそのような余裕は無かった。自分も本気で捨てているつもりだったので、トイレットペーパーの芯を替えたらその芯をことが終わるまでじっと目を離さず持つとか、これ以上どうしたらいいのかわからなかった。

それでも芯は残り、怒られた。
後ほどわかるが、私以外にも芯を残していた人間がいた。ほかの子どもと、育て親本人だった。本人は、笑っていた。残っていたら必ず私を怒っていた。特に言及はしなかったが、意味がわからなかった。

トイレットペーパーの件がなぜだったのか、20代初めから中盤にいたるあたりで初めて精神科にかかり発達障害と鬱がやっとわかる(診断が下る)、障害というものが健常者ができることと比べ見えにくくてもガチでクッソ困難なことであるということが分かっていくのは、他人の障害について考える機会がその後奇跡的に就職してからとても多くなるからなのだが、
ちょっと長くなるのでここは割愛だ。

教えもらった神社が強力なところだよ!というのはふんわり知っていたが、今までありがたがっていた所は感謝を強要されていただけでめっちゃ虐待されていたというのを数十年たった今、このごくごく短期間で自覚し気付かされまくるのは、少々荒療治なのでは?と思った。が、2週間そこらでここまで掘ってこれられたのは運が良かったのかなと思う。
し、もうこれを書けるほど回復できたのは、今はそこから離れられてるからかなと思う。離れなくても心も体も危険じゃない人達が、心から羨ましい気持ちもあるけどね。
これから自分の幸せとはなにか、を考え直したり、人間を見ていく上で、いずれは必要になる向き合いだったとも思う。

そして何より、自分を洗脳し虐待してきた人間に対して、もう絶対に一生許さないという気持ちと、それとは別に、例え生贄目的の為だったとしても、ほんの幼少期皆が幸せそうにしていた頃、少しでも本気で温かいと感じた事のある恩への感謝は、
同じく、両方持っていていいんだと思えた。

ずっと、食わせてもらってるだけでありがたいと思え、育ててやっただけでありがたいと思え、と育てて来られ、特性に苦しみながら自分で食い扶持も持てずやってきたから、育て親のことはどれだけ苦しくても憎んでいても全肯定しないといけないと思っていた。

でも、全部ダメ、でも、全部肯定、でも、どっちでもない。
一生許さない。けど、あの時だけは幸せだった。
って思ってていいんだな、と思った。

勿論だが、これからそういうことをしようとしてくる人間に対して容赦はしないし、そういう人間と縁を作る気もない。だからこそ、彼らを許す気がない。これでいいのだ、と。

己のお金の使い方というのは、常にメンタルと共にあった。きっとこれからもそうだと思う。
恐らくこれからも、何か問題があるなーと感じた時は、過去の事や、今のことに真正面から向き合うことがいつかは必要になってくる。逆に言うと、お金の使い方が最近荒いな、と思った時は、自分の心身がめっちゃ乱れてる時なのだという指標にもなるかも。

今は、さあ蓋を開けたらこうなっていた構造のものをどうしてやろうかな、どうすればこれを有効活用できるか、それともこのまま置いといて時々眺めればいいのか、どうしよっかなと思っている最中だ。

開けた直後は流石にドン引きして凄まじく落ち込んだが、考えたり美味しいものを食べたり消化器の治療受けたり友と話したりして、ここまで落ち着いてきたんだな、と思ったので、メモや吐き出しの為にも筆を取った。

傷ついた心は元には戻らない。なんとか安全な所(それは場所に限らず、長い時を経てという事も)に来れた時に、ふと緊張が抜けて、やっと向き合うことが出来るんだと体感した。

自分と本当の意味で向き合いながら生きるを考えるってことが、こんなに周回遅れだけど、どうなるか全然わからないけど、やっとこ始まるんだな、と思った。


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