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わたし、ポンコツなんです。50代ですが「生きやすい」を考えてみたい ❹怒っている人が怖い。怒られるのが辛い。

いまの会社の社員さんで、一切口をきいてくれない人がいます。わたしにだけにです。いや、直接声をかけて質問とかしたら答えてはくれるでしょう。でも今の職場では、わたしたち派遣社員は直に社員さんと話してはいけないことになっているので、めったにそんな機会は訪れないのです。(派遣のリーダーさんが突如お休みとか席をはずしているときに大事件がおきたとかでないかぎり・・)

わたしが「お先に失礼します」といって会社を出る時も、他の人には「おつかれさまあ」と言う、その社員さんは私の場合だけは無言!
いや、以前はちーいさいこえで、ほぼ理解できないくらいの声で「×&=※れb〒ま」とはいってくれていたこともあったのですが、いまでは全くの無言です。
わたしも気にしないでサラリとかわしてしまえばいいのですが、
じっくり耳をダンボにして声がきこえないか耳をそばだててしまうんです。
ああ、またなんにも言われなかった。そのたびにへこんでいます。

たぶん、わたしの仕事のミスとか焦りまくるかっこ悪いところとか、おどおどして挙動不審なところとかがイライラするんだろうな・・・。

わたしは、いつもすぐ、「すみません」と言ってしまいます。

自分でもあんまりよくないかもと思ってはいるんですが、なんかもうクセなのでしょうか、パッと口からでてしまい、自分でも「あ、また」と思うものだから声が小さくなり、なんだかそれもどうかという雰囲気になります。

「とりあえずなんでもかんでも謝ればいいとおもっているんだろう!」
そんなふうに思われそうだなとわかってはいるのですが、説明しようにも説明がへたくそだし、言い訳と思われたらよけいに叱られそうだし・・・・
でも黙っていたら反抗しているみたいで感じが悪いから、「すみません」になります。

だけど状況がよくなるどころか、むしろ相手をさらに怒らせるようなこともあります。「すみませんってどういうこと?」と責められたことも。
なんでそんなに怒るの?なにがそんなに怒らせちゃうの?


怒られるのが、本当にだめなんです。

子供の頃怒られてばかりいました。
母は私の顔をみれば怒り出し、可愛げがないといいました。
母の笑っていた顔を思い出せません。
一緒に大笑いするような記憶は全くなく、
ただただ怖かった事が印象的です。

学校では担任が変わるたびに呼び出されたり怒られたり、廊下ですれ違いざまに「あなたのお母さんは立派なのにねえ!」とか「あなたはいつも職員室で話題になっていますよ!」と、どうみても良い話題ではなさそうな厳しい表情で言われるのでした。

たしかに忘れ物が多く、勉強もしなくて、授業中も後ろをむいて友達に話しかけたりしていました。
そんなとき激しくぶたれたのを今でも思い出します。

当時は親も教師も怒る時は暴力と一緒で、そのことがさらに恐怖でした。
怒るのはやく終わらないかなと下を向き、怒られた理由なんてもうどうでもよくなっていました。
怒らないで!ぶたないで!の気持ち、ただそれだけだったと思います。
そして、怒られることが続くと
「ああ、この人はわたしのこと嫌いなんだなあ」と
すぐに思ってしまうクセがつきました。

だからこの口をきいてくれない社員さんも「わたしの事が嫌いなんだな」としか思えず、サッと逃げの体制になってしまいます。
本当は、わたしに直さなくてはいけないことがあっての無言かもしれないのに、何を言われるかとビクビクして、交流することを拒んでしまいます。

前に違う職場で「なんでそんなに声が小さいのっ?」と大きな声でいわれて、周りのみなさんが振り返り、恥ずかしい気持ちになったことがあります。

みんなの見せしめみたいに、みんなの前で長々とお説教されるという場面が今まで幾度もありました。仕事が終わってから40分間たったまま注意され、あげくに家での宿題もだされました。そうなると、誰かたすけてくれるどころかそうだそうだといわんばかりに他の人たちも怒りだします。わたしのような人間には言って当然だ、こいつはきつくいわなきゃわからない!とでもいうのでしょうか。うなだれながらそっと周りを見ると、ギラギラした目でわたしをみおろす人たちがいます。改めて考えてみると、自分でも不思議になります。どうして私は人をこんなに激高させてしまうんでしょうか。

「天然だよね」とよく言われます。

最初は親しみを込めて言ってくださっているのがわかるのですが、「怒られる標的」になりだすと、「天然」=「理解できない困った人」になり、そのうち「ポンコツ」になりバカにされているような対象となります。

「天然」がうけることもあり、そんな時はありがたいのですが、みんながわたしにイライラしだすのも「天然」のような気がするので、いいことなのか悪いことなのかわかりません。
そもそもわたしのなにが「天然」なのかよくわかりません。


ある時気づきました。
あれ?結構みんなもミスしたりしているじゃないかと。

だけどその時わたしのように怒られるようなことはなく、
ミスした人も委縮しまくる人はいないのでした。

「うわあ!やっちゃったー」とか
「ごめんなさい!」とか
言い方が明るい。後を引きません。それにそのすぐ後にたわいもない話で笑い合ったりして、もう何事もないかのように楽しそうなんです。

す、すごい。全然みんな引きずってない・・・
わたしにはできないなあ。いいなあ・・・と思っていました。

でもその時思い出したのです。いつぞやのラインのことを。

お昼ごはんや夕ごはんは用意をする関係上いるのかいらないのか早めに言うように家族には言ってあるのですが、どうしても直前になって言われることがあり、もう用意しちゃったよーとがっかりすることもあります。

その日も怪しかったため、わたしのほうから確認のために次男と娘にラインできいてみましたら、あ!言うのわすれてた!今日バイト!ごめん!となりました。

でも、その時の次男と娘の違いが興味深かったのです。

次男は素直で優しい子なのですが、どうも忘れっぽいというかぬけているところがあり、(わたしに似ているなあと感じることがあります)頼んだことを忘れることも多く、そのたびにすごく謝ってはくるのですが、謝る割には改善しないような気もしていました。
その日も「ごめんねーごめんなさい」とスタンプをつけて謝りまくっていました。

「うんいいよー。」と返事を書きながらも、なんかひとこと言ってやりたい気にもなり少し釘を刺しておこうかとおもったやさき、同じ理由での娘からのラインがはいりました。

「おかーさん、言うの忘れちゃってごめんねー」
娘も次男と同じく謝っていますが、その次の文章でハッとしました。

「朝のナガノパープルおいしかった!」

これはなにかというと、ナガノパープルという巨峰のような見た目のぶどうで、何年か前にはじめて食べ、あまりのおいしさに感動し、高いのでめったに買えないのですが、毎年でてくるのを楽しみにしている果物なのです。家族も大好きで、おいしいね、でも高いからちょっとだけねと大事にいただいていました。

その日は今年のはじめてのナガノパープルを朝食のヨーグルトと一緒にだしていたのです。わたしが朝家をでたときは子供たちはまだ寝ていたので、その後食べたのでしょう。

娘のメッセージからは
「(高いけど絶対おいしいから家族にたべてほしくて奮発してお母さんが買ってくれた)ナガノパープルおいしかったよ!ありがとう!」という言葉を感じたのです。娘は私の気持ちをわかってくれているなあ!という気持ちがして嬉しくなりました。だから、もうなにもいうことはありませんでした。次男になにか釘を刺しておこうと思ったのとはまるで全然違う気持ちになったのです。

娘は無意識だったと思うのですが、
うん、娘はこういう人だという気もしました。

家での動きにも「気が利いている」のです。

私が言わなくてもやってほしいことを、例えば食卓の用意やセッティングなどもぱぱぱっと考えてくれるので、5人分のこまごまとしたお皿などのおかずがあたたかいものはあたたかく、つめたいものはぎりぎりまで冷やしてだしてくれて、皆で一斉にいただきますができるということにいつもお礼をいっていました。

たいして次男は優しいので手伝ってくれようとはしてくれますが、「これもっていっていい?」とか「これだれの?」とか指示をまってから動き、わたしがなにかいうまで立ちんぼで待っていたりするので台所で忙しく立ち回っているわたしとしては邪魔だったりするのです。

ああー。そうか、そうなんだなあ。

まさに次男は「怒られないように言われたことをする」人で、
娘は「言われそうなことを先に考えて怒られない」

ということをわかりやすくみせてくれています。
こうやって自分じゃない人の動きでみるとわかりやすいなあと思いました。
たしかに次男の動きは時々イラっとするのです。(笑)
がんばっているのにかわいそうですね。

でも次男にナガノパープルの娘のラインの話をしてみたら、
「えー。頭でわかっていてもぼくにはできないなあ」と言っていました。
ああ、わかる。お母さんも。できないなあ。

でも、こういうことができるようになったら、
もっと「生きやすく」なるのかもしれないなあ。


※あんころうさんのステキなイラストを使わせていただきました!ありがとうございました!

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