こうした両義性が把捉表現されている訳として、「真理は実体としてではなく、おなじくらいに主体としても把握され、表現されなければならない」(三浦,1995,132)、「真理を『実体』としてではなく、『主体』としてもとらえ表現する」(長谷川,1998,11)、といったものがある。