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さようなら、エヴァンゲリオン

シン・エヴァンゲリオンが公開されて、早くも数ヶ月が経ってしまった。世の中の大半の人にとっては、エヴァはたかがアニメ映画である。たかがアニメ映画が終わることに感傷的になってしまうのは、私にとってエヴァはただのコンテンツではないからだ。

コロナの影響で公開が延期されて何故かホッと安堵したオタクも多かった筈だ。あのエヴァンゲリオンが終わってしまう。早く見たい。しかし、延期ならば終わらないままでいてくれる。見たいような見たくないような、複雑な心境だった。
そうしてようやく、公開の日を迎えた。

学校の先生にこの映画の感想文を書けと言われたら、私は困り果ててしまうだろう。
正直、何が起きたのか分からなかった。長い。なんなんだよ。疲れた。終わってしまった。寂しい。なんなんだよあれ。意味わかんない。もっかい見よ。

まじでそんな感じだった。

真面目な感想とか考察とかは、ググれば腐るほどあるから書くのやんなっちゃうので書きたくない。だからこれは既に巷にごまんと溢れている、エヴァにかこつけたオタクの痛々しい自分語りでしかない。

庵野監督はエヴァンゲリオンから逃げなかった。形はどうあれ、きちんと「終劇」させた。
それはとてもえらい、えらすぎる。
えてして世の中や人は流行に飽きやすい。鬼滅のブームは嘘だったように収まり、エヴァも公開冷めやらぬうちにファンらは既に次の祭りに目をやっていた。シンって付ければなんでも良いのか?!?そんな安直さで良いのか!?!という怒りはさておき、もう世の中のエンタメというのははっきり言ってもう死んでいる。出涸らしのようなコンテンツの中で、もしかしたら何かすごいものを見せてくれる筈だ。鬱屈とした世の中を、変わり映えのしない今を、きっと何か変えてくれる筈だ。そんな期待を一方的に持って見た。そこで得られたのはカタルシスではなく、ただの確認だった。もうコンテンツで人生を変えられない程、私は大人になってしまった。それを確認をする為、私は四回も見てしまった。見てしまったのだ。

私は多忙な時期にシン・ゴジラの波に全く乗れなかったのを未だに後悔しているので、シンエヴァの波にはどうしても乗らなければならなかった。ネタバレを踏む前に自分の目で見て確かめねばならないいう、強迫観念じみたものがあった。

話はシン・ゴジラの頃に少し遡る。
その頃の私は自分の人生に悲観していた。はっきり言って絶望していた。今でもよく覚えているのは、TSUTAYAで見かけたシン・ゴジラのレンタル開始のポスターだ。生きるか死ぬかのギリギリの瀬戸際の精神で、横目にかすかに見たキャッチコピー。

「虚構 VS 現実」

庵野監督は、大好きなクリエイターである。しかしその時の私は、現実に生きるのに必死だった。見るどこか関心を持つ気力すらなかった。庵野監督が渾身の力で送り出した虚構は、当時の私のさもしい現実の前にはただの色鮮やかなポスターでしかなかった。私の人生に何も影響を与えなかった。虚構は、リングに上がる前に現実に負けてしまったのだ。
(その後私が時間差でシンゴジラにどハマりし、ほぼ日で見て過ぎ去りしコラボやグッズの山を見ては悔しさからハンカチを噛み締め、枕を涙に濡らしたのは言うまでもありません)

話をエヴァに戻します。
私は心の弱い人間なので、いつも虚構を拠り所にしていた。成長し歳を取れば、自分の自我が失われるのが死ぬより怖かった。死が怖いのも、生命の停止というよりは個が完全に失われることへの恐怖からだ。逆にいえば、個が完全に保全され失われなけば、死は怖くないのかもしれない。生きているということの意味の定義するところは、変わることだと思う。生きた人間との対話は、同調圧力のようなものがあって怖い。会話はいつも、並列化を試みられているような不快感がある。どうしてみんな同じになりたがるんだろう。気持ち悪い。私は私だ。入ってこないで。だから、虚構はいつだって心地よい逃げ場であり安全圏だった。

私にはオタク友達というものが居なかった。そもそも、友達というものが居たのかすら分からない。作ろうと、維持しようと努力はした。女オタクはいつもなんだか怒ってばかりで基本的に人の悪口しか言わないから怖いし、男オタクは風呂入ってないから臭いしそのシャツ中学生からきとんのかワレ...?みたいな人が普通に接してくるから生理的に無理ぽ...という悟りの境地だった。

エヴァで最も恐怖したのは「人類は一つの総体として進化しなければ先が無いんだよ」と暗に言われたような気がしたからなのかもしれない。嫌だ、一つになんかなりたくない。他人と同じになりたくない。怖い。気持ち悪い。だから、同じような考えの人間がいることが嬉しかったのかもしれない。それを体現したキャラクターが存在したことも、私がエヴァをコンテンツではなく人生の血肉のように思う一因だった。

人類がポンジュースとなり一つになった中でシンジという他者を拒絶し続けたアスカは、私にとってはヒーローだった。だからそんなヒーローとしての最後が、クラスの冴えない男とくっつくというのはあまりにやるせなかった。許せなかった。失望した。がっかりした。悲しかった。

それと同じくらい、安心した自分も居た。
アスカはもう二度とエヴァに乗らなくて良いんだ。
エヴァ以外に生きる居場所と存在理由を見つけたんだ。良かった。良かったなぁ。お前は、大事にしてくれる奴と幸せに暮らせよ。もうエヴァに乗るんじゃねーぞ!じゃあな!四回目を見るうちに、そんな心境になった。何故か、救われたような気がした。

令和になってもアスカ大好きおじさん達が、ケンアスという生温い地獄を見て狂う様を見ても「アスカと自分を同一化させてたから、冴えない男とくっつくのが許せないんだな。わかる」と勝手に思うくらいには大人になってしまった。

庵野監督の繊細過ぎる心と病みやすい精神が、素晴らしい作品に昇華されたことは紛れもない事実だろう。私も、はっきり言ってTVシリーズの方が好きだ。旧劇の方が好きだ。旧作のような作品が見たい。見たかった。だからと言って、庵野監督に傷付いて不幸になって欲しいとは全く思わない。思うまではまだ良い。でもそれを口にするのは呪いだ。旧劇的な、例えるならば退廃的な甘美な痛みを求めているファンにとっては、新劇場版は不満に違いないと思う。一向に変わることないものを望むなら、永遠に時が止まったフィルムの中に追い求めれば良い。私もそうする。
今現在も変化しながら生きているクリエイターに「お前は変わるな(=ずっと不幸なままでいろ)」というひとりよがりな欲求をぶつけるのは、恐怖でしかないし烏滸がましいとすら思った。

私は評論家ではないので、この映画の作品としての出来も価値も分からない。私にとって良い映画という基準はある。登場人物のたった一言や1シーンでも良い。見た人の人生の折に触れて思い出させるものがあった。それがたった数秒だってあれば、それは私にとっては「良い映画」なのだ。

私は息子とシン・エヴァンゲリオンを見た思い出を度々思い返したりはするだろうが、そのうち映画の内容は忘れてしまうだろう。そもそもとして、この映画には作品として語るような中身は無い。エヴァは虚無だった。虚無だからこそ、我々は好き勝手な欲望や期待や考察を詰め込めたのだ。妄執と言っても良いかもしれない。

現実はたかが映画を見たくらいでは揺るがない。人生はちっとも変わらないし、人は救われない。だからといって、嫌になって虚構を逃げ場所にするほど子供ではない。世の中が嫌になったら車を飛ばして美味いものを食べて帰れば、それなりに機嫌や折り合いが取れるような年にになってしまった。私達はもうとっくに大人になり、身体に合わないプラグスーツをぎゅうぎゅうに着込んでいた。そうしてギリギリまで膨れ上がった妄執を、庵野監督は自ら針を刺して破裂させた。

映画を見たくらいで人生は変わらない。だが、私の心にはわずかばかりの変化があった。法事以外では全くしなかった墓参りに、自ら初めて行ったのだ。手前勝手に生きて死んだ父の墓参りを拒絶していた私に、過去と向き合う決心をようやく付けさせた。

庵野監督が自らのケジメとして作り上げた二時間半のスペクタクル大虚構は、今回ようやく私のさもしい現実に勝ったのだ。おめでとう、おめでとう、ありがとう。

もう二度と深夜アニメを見て自分の培った価値観や世界観を180度ひっくり返されるような体験も、インターネットに入り浸り感傷に浸るような夜も無いだろう。私はごくありふれた、つまらない、どこにでもいる、何者にもなれない、ごく普通の大人になってしまった。最近ではアニメはおろか漫画すら見ない。もはやオタクですら無いのかもしれない。それでも、オタクになった最大のきっかけになった作品の最後をきちんと見届けられて良かった。良かったんだよ、うん。

だから、さようならエヴァンゲリオン。
ありがとう、庵野監督。
どうかお体を大事にして、長生きして下さい。あなたの作品が好きです。大好きです。

追記:誤字脱字があった為、修正しました。父親を殺すことも肩を叩いてやることも出来ないまま看取りました。憎み続けるのも辛い、かといって赦すわけにもいかない。そんな十年間の気持ちに、墓参りをすることでほんの少しばかり区切りをつけられました。

私は何者にもなれませんでしたがクリエイティブに携わる方は、現実に打ち勝てるような虚構を世に出して下さい。

読んで頂いてありがとうございました。