読書

 やぁ。8月も下旬。暑い日が続いていましたが、お体溶けていませんか。

 先日、僕は本を読み終えました。せっかくなので、ここに感想文を残しておきます。特に、この本を読んだ事のある人や、この本を知っている人へ向けて、僕の感想を共有できると嬉しいです。
 まずは「本の内容を読んだ感想文」を書いて、その後に「本を読む僕についての小話」も書いておきます。

 文中、拙い箇所も多くあると思います。僕の語彙や表現力の乏しさに気付いても、見逃してください。
 それから、この本の内容を知らないという場合は、まず本を先に読む事をお勧めしたいのですが、その内容はかなり好みの分かれる内容だと僕は思っています。ですので、他の読者さんの感想なども参考にしながら、まずはこの本について知ってみていただきたいです。この本を知った上で、それが苦手でなければ、読んでみるといいかもしれません。
 この本を読むとなった際は、心身と時間に余裕を持って読む事をお勧めします。僕はこの作品を読めて良かったと思うし、考えさせられる内容で面白かったと捉えています。
 この記事を読んでいただく間は、気楽に、ご自由に、興味のある箇所だけ見ていただけると嬉しいです。お願いします。


 以下、三浦しをん『天国旅行』(新潮文庫)のネタバレを含みます。ご留意ください。


読書感想文・『天国旅行』編

 読んだ。面白かった。でも、これが明るい気持ちではない事は確かだ。読み終えてから何故か思い悩んでしまうような、そういう後味がある。僕はその後味をメモ書きでは「ウオオ」としていたのだが、満足とも悲哀とも違う、達成感や虚無感が混在した気分だった。
 この本は小説の短編集で、どれも考えさせられる内容だった。この小説たちには共通のテーマがある。そのテーマは「心中」だ。共に死のう、の「心中」だ。僕はこのテーマを知らずに読んだ。読み進める中で、そういう本か、となんとなく分かっていった。
 本の最後のほうには、有名な作家さんの解説がある。それも良かった。解説者が嗅ぎ取る『隠されたテーマ』についての話も面白い。それも読み応えがあった。やはり解説者も作家さんだからか、視野が広いと思わされた。こういう解釈もありだな、となるところもあった。この解説を読み終えた時点で気は済んでしまいそうだったのだが、やはり自分の言葉で感想を残そうと思い、色々あって今に至る。その「色々」の詳細は、下記にあるはず。興味があれば読んでいただけると嬉しい。
 この本は短編集のため、僕の感想もそれぞれの小説へ向けて残す事にする。どうしても苦しいところがあるので、長くは書けないかもしれない。ごめん。どれも面白かったのは本当だから、それは信じてもらいたい。


『森の奥』
 おいおい、どこへ行ったんだ青木くん。おっさんを寝かせておいて、そりゃないぜ。このおっさんは寂しがりなんだから、1人にしないでやってくれよ。と思った。僕は、この正体不明の男を気に入っている。
 途中、「カロリーメイトをかじる」という描写がある。こういった現実に在る物を用いる描写があるから、この小説を読んでいる間は他人事と思えないような、擬似体験が可能になるというか、そういう感覚があった。それに、この2人がどういう心境だったのか、と興味が湧いてきてしまう。
 おっさんと青木くんは、ある樹海で出会い、共に過ごし、その会話が続いていく。気の利く男に心を許した明男は、ふとした拍子に再び男の事が分からなくなり、混乱して逃げようとする。ここからの2人のやり取りが興味深い。疲れ切っていたのか、自我を忘れて相手に八つ当たりしたり、放っておいてくれと願ったりする。でも、また明男は男に心を許して、と話が進む。
 得体の知れない男はカラッとした奴で、自殺に失敗したおっさんを笑ったり、息をするように嘘を言ったりする。それを純粋な明男は疑ったり信じたりして、最終、睡眠薬を酒で飲み込み、青木くんに見守られ、夏の大三角の話を聞きながら眠る。そして、知らない声に起こされる。
 明男は、息子のため、妻への腹いせに、樹海で死のうとした。でも死ななかった。樹海をさまよう途中、死体を発見して放心するほどに純粋で、か弱いおっさんだ。自分の証明になる物を全部燃やしたのに、死ねなかったのは可哀想なのかもしれない。青木くんに放って行かれて寂しいだろう。でも生きているのがいいよ、と僕は思った。青木くんにもトラックの人たちにも、見つけてもらえて良かったな明男、とも思う。
 人は窮地に立たされると、誰かからの情に打たれ弱くなってしまうのだろうか。自分の状況を悲観的に思いすぎて、自己肯定すらできなくなって、そうなってしまうのではないか。おっさんが青木くんの問いに「どうだったかな」なんて答え方をした時点で、自分への価値を証明しようとしているようにも思える。おっさんは自分が可愛いから、死ぬ死ぬ詐欺をしていただけなのではないか。そもそも、自己肯定があれば死ぬ事は選ばないだろうし、他人のために死んでやるなんて事は、他人から少しでも愛されていないと選べない事なのではないだろうか。保険金としてではあったが、妻から必要とされている自覚があったからこそ、そうして妻の気が自分へも向くように企てたのだろう。首を吊ってもそこでじっとできなかった、苦しさに耐えられなかった。死にたかったのではなく、死んでやりたかっただけだった。妻まで届かなきゃ意味がない自殺だった。元から自分の意思ではなかった。だから青木くんと出会って決意が緩んでしまった。違うか明男、と僕は思っている。
 青木くんが「もう死ぬつもりはなくなったか」と言ったのも、自殺志願者への揺さぶりの口上だったのではないだろうか。あらゆる処置の慣れたような手捌きは、青木くんが樹海の中でそういう人を何度も見てきたから、あるいは青木くん自身が何度もそう志願しているから、またはその両方だからだとすれば、と考えてしまう。
 どれだけ僕が考えても、青木くんの行方は知れない。だが、僕も明男と同じように、青木くんは無事だと信じている。


『遺言』
 この小説は作家さんの作る文章の癖みたいなものが読めて、とても楽しい。この短編集の中で僕が最も好きな小説だ。これを読んでいると、『私』が書いた『きみ』への遺言状を実際に読んでいる気分になる。というか読んだ。そう、もう僕は読んでしまった。盗み読みしたような気持ちになるぐらいには、読んでいて楽しかった。
 この『私』は、妻である『きみ』の口癖のようなものにうんざりしている、というところから文章は始まる。若い頃の『私』の可愛らしい恋心と尾行の思い出が、独特の表現で綴られている。例を挙げるなら、「かなうことなら」からの後悔のような文章に笑ってしまった。僕はこういった表現が好きだ。これほど熱烈な質量のある想いは、向けられた相手からすれば厄介とも言えるのだろう。しかし、その厄介さに己自身が振り回されるのも悪くないのかもしれない、などと思う。この『私』は『きみ』に恋をしてから、「変身願望が異常に高められる」事を知ったようだ。大変だ。その後の「君から放たれた白球は」からの表現も、とても気に入っている。
 紙片での通信、きっともどかしいところもあったのだろう。しりとりをしている事が友人に見つかるまで、こそこそと楽しんでいた2人が可愛らしい。
 文中、『私』の集中が切れ、現在の話になったり、また昔の話に戻ったりする。この、リアルタイムで綴られた文章、に見える雰囲気の文章だから、本当に盗み読みしてしまったような気分になる。面白い。
 大人たちから監視され、距離のあった2人が、ある夜に落ち合った時が1度目。幼さ故の気の迷いだと、間違いを犯してはいけないからと大人たちの抑圧に我慢していた。それが自由となった夜、2人だけの夜を過ごす。しかし、若い2人は元の町に帰ってしまう。以前より監視が厳しくなり、また距離ができてしまう。
 その後また再会し、2人暮らしに慣れた頃、『私』が若い研究者に浮気した時が2度目。あれだけ熱烈な想いを抱いていた昔があっても、時が流れていけば薄れてしまう事もあるらしい。それを知った『きみ』は1度目の時の薬品で「一緒に死にたい」と告げるのだが、『私』の懇願により、事なきを得る。その直後の出来事が、以降の『私』へと影響を及ぼしている。僕は、この2度目の話が気に入っている。この時の『きみ』が、どれだけ一途に『私』を思っているかが分かるような気がする。それ以外で『私』に手を加える方法を知らないのかもしれない、とも思わされる。いわゆる箱入り娘らしいというか、相手の研究者にではなく『私』に手を加えようとした、というところがなんとも健気に思う。それでも怖いものは怖いのだが。
 そして3度目は、「生きた証を残せない」と嘆く『きみ』が首を吊る。しかも家で。柿の枝にぶらさがる『きみ』を『私』が止めようとするのだが、その『私』の首を『きみ』の手で絞められてしまう。なんつ〜話だ!と読みながら思った。一連の『きみ』へ向ける『私』の視線の熱さにも、ヒューヒューだよ、と思ってしまう。
 この小説の中ではいくつか、驚くほど急にとんでもない事が起こって、本当にぎょっとしてしまうのだが、そのどうしようもなく一直線なそれぞれの想いや行動が、なんとも可愛らしく思える。驚きのあまり笑ってしまう。こんな事を思うと2人に失礼だろうが、『私』も『きみ』も厄介な奴だな、と思った。似た者同士が惹かれ合うという事だろうか。びっくりしてしまう、本当に。しかし、羨ましくも思う。
 その後は、『私』の『きみ』へ向けた想いが綴られている。残されるだろう『きみ』を心配していたり、生きてきた2人のこれまでを肯定していたりする。
 この『遺言』を読んだ『きみ』が、そのまま『私』を想う『きみ』として、また『私』と再会するまで、どうか生きていてほしい、と僕は思う。


『初盆の客』
 この小説も、『私』という相手から話を聞かされているような文章だ。これを読む間、僕も『学生』になれる。
 この話を読み終えた僕は、本を一旦置いて、後ろや部屋を見回してしまった。なんとなく、ぞっとするような感覚もあった。淡々と話を聞かされた気分でいたのだが、結末が予想していたものと違って、怖く思ってしまったのだろう。小説の中の出来事だからな、と何度か自分に言い聞かせたが、ここも休憩が要ると思った。すごく作り込まれている小説だと思う。
 僕が知っている物事を、少し疑ってしまいそうだった。僕は誰から生まれたのだろう。これまでに僕はそう聞かされていたから僕はあの人たちを自分の親族だと思っていて、実際の僕は拾われた人間だとか、僕の親族と思っている人たちと僕とは無縁だとか、そういう可能性もあるんだよな、と考えた。その後、現実で、僕は盆に会った親族から「お前は俺と同じ血が通っているんだから、俺と同じような人生を送る事になるんだ」と念入りに語られてしまう。ぞっとした。そして僕はそいつの事を更に嫌ってしまうのだが、これは小説とは何の関係もない。僕の信じるものたちだけが僕の人生に影響するんだよ、と今は強く思っている。
 因みに、僕がこの小説を読みながら予想していたのは、緑生と会話した『私』が身に覚えのない妊娠をしてしまっていたという結末だった。でも違った。この『私』が本物の夏生と結婚した結末で良かった。
 僕も誰かと同じ夢を、同じ日に見る事があるのだろうか。


『君は夜』
 この小説は、特に切なく終わってしまう。夢に生きていた乙女というか、夢に囚われてしまった乙女というか、そういう可憐な乙女の話だ。乙女は、夜に見る夢を自分の前世だと思いながら昼間を生きてきた。が、いつからかその夢を見なくなり、現実の相手に惹かれていく。忘れていた夢を乙女が思い返す頃には、その恋路はぐずぐずになってしまっている。哀しい。
 僕はこの小説の中の親子に、強い親近感が湧いた。僕もそれ言われた事あるよ、みたいな台詞が頻繁に出てくる。親が親なら子も子なのかもしれない。こんな親のようにはならないと反面教師にしてきたはずが、知らずそうなってしまう部分があるのだろう。本当に、血縁というのは煩わしい。僕の選んだ結果が僕の人生として続き、それらが僕の人格として蓄積されていくだけなのに。
 理紗だって、こんな夢を見なきゃ前世に執着する事もなかっただろうし、ただ恋に生きる乙女だったのだろう。文字通り『夢見がち』だったからか、理紗が根岸のような奴に惹かれてしまうのも解る気がする。両親の関係を見ているとそういう感じにもなっちゃうよな、と思う部分も多かった。
 変な感想かもしれないが、この話は、この短編集の中でも、かなり現実的な小説だと思う。主人公と僕の境遇または思考が似ているからそう思うのかもしれない。似ている部分が多すぎる。読んでいる間も他人事のようには思えず、こう返してやればああなっただろうにとか、それ多分こうだったんだよとか、かなり感情移入して読んでいた。
 僕には、運命みたいなものを信じてしまう時がある。でも、それは僕の都合のいいように、あるいは相手の都合のいいように、そうあればいいと思い込んでいるだけなのではないだろうか。僕が今こうして過ごしている現実だって、夢と呼べるものなのかもしれない。相手を見る時、己というフィルターを通して見ている限り、僕は相手の本心を見透かす事なんてできない。相手の事を疑いたくはないが、見えている相手が全てだと信じ続ける事も難しい。他人を完全に理解する事など、きっと僕にはできないのだろう。好意や劣情はどう生まれてくるのか、信頼とは何をもって抱き抱かれるものなのだろうか。僕の好意はどう湧き出るのか。僕の気持ちなんて本当はなくて、僕は感情を持っているふりをしているだけなのではないか。というか、僕は本当はこの世に存在していなくて、周りの存在たちが僕へ夢を見せているだけなのではないだろうか。と、どこまでも何も信じられなくなってしまう。面白い。
 この乙女にも僕自身にも、見えたものをきっちり見つめろよ、と言いたい。そうしていても、悪戯に絆されてしまう事もあるのかもしれないのだが。


『炎』
 亜利沙、もしかして初音の事を想っちゃっていたのでは。初めて喋った時より前から、そうだったんじゃないのか。と問いたくなった。
 この話も夏に読むといいのかもしれない、情景が鮮烈に思い浮かべられる。亜利沙の携帯にメールが来た後、空が見える描写があるのだが、そこもいい。それから、『化粧おばけ』という表現がとても好きだ。
 僕は、立木先輩と同じように左手だけを使って、この小説を読み進めた。慣れない持ち方をして、案の定、手首を痛めてしまった。ウケる。
 立木先輩の事件について、真相は分からない。でも僕は、終盤にある亜利沙の考察のまま、事が起きたのだろうと考えている。僕は読者だから、この物語を遡れてしまうのだが、この2人の行動を見返すと、初音が怪しい動きをしていると読み取れる箇所が出てくる。ただ、初音が話していた立木先輩との思い出や惚気のような話、その涙や怒りは、本当だと信じていていいのではないか、と思う。
 本当は知り得ないはずなのに、少女たちは「まるで神のように」思うがままに動いた。それは正義の健気さ、人を疑わない純粋さ、情け深い脆弱さが成した事だったのかもしれない。良くも悪くも、そこにある命は何よりも優遇されてしまう。しかしながら、忘れられた命はそれほど優遇されなくなってしまうのだろう。同じ命なのに。それはこの世の不条理なのかもしれない、とも思う。
 誰かにとって僕は、忘れられない存在でいられるのだろうか。それとも、忘れられてしまう存在なのだろうか。僕が死んでも、その答えは僕には知り得ないのかもしれない。


『星屑ドライブ』
 彼女が呑気で笑った。そうなる前からふわふわとした人間だったのだろう。そういうところがいじらしいような、でも少し不可解で恐ろしいような感じがする。その姿が見える『僕』へ、これからが不安なのだと泣き出す彼女に、少し笑ってしまう。幽霊と人間が会話している。僕からすれば、亡き恋人が見えてしまう『僕』のほうが不安だろうよ、と思う。でも、この『僕』は彼女が死んでしまった事にしばらく気付かなかったらしい。気付く場面の描写も面白い。
 その後、『僕』は幽霊を隣に歩かせながら、彼女について警察へ通報したり、彼女に関わっていた人たちの元を訪れたりする。それを読みながら僕は、人がいなくなるという事はその周りにどういう影響を与えるのだろう、と少し考えた。この『僕』のように確信がなければ、粘り強く人を頼る事はできないだろうし、周りには相手にされないのかもしれない。行方不明者が若者だと尚、真剣に取り合ってもらいにくいのだろう。ましてや、その恋人が事情を知らないとなれば、または行方不明者に近ければ近いほど、行方不明者が行方不明になった原因として疑われる人物になってしまうのかもしれない。また、行方不明者に関わりのない人からすれば、そういうのはよくある話、知ったこっちゃない話、となるのも分かる気がする。
 高速道路の場面で、散らばったはずの彼女が元の状態で走ってくる、という展開が好きだ。嘘だろ、と思って何度もここを読んでしまった。走ってきた後の彼女の台詞も呑気だ。その仕組みはどうなっているのか、気になる。
 この『僕』が見た夢は、予知夢のようなものだったのだろうか。彼女を轢いたのは『僕』ではないとしても、その後に山で彼女の死体が見つかったり、高速道路での『僕』の語りに携帯電話が出てきたりする。彼女から逃げ出したいと思いながらも、実行に移さない『僕』だ。彼女を一度轢いたから「実行には移さない」のではないだろうか、などと考察した。
 物語を読み進めていると、『僕』には強がる癖があるように見える。外で話す時の『僕』の一人称は『俺』だ。小説の中の演出なのだろう、この描写に気付けて良かった。彼女に対して『僕』が何かを思っていても、それを口に出さないでいる、という描写が何度か出てくる。死んでしまった彼女の前ですら、『僕』はそうしている。威圧を出すための強がりではなく、彼女に尽くそうとするための癖なのだろうか。と思えば、彼女も自分が死んでしまった事を黙っていようとしていたり、店長に告白された事を隠そうとしていたりしたらしい。彼女が死んでしまったと気付く前から『僕』は彼女を疑っている。彼女の視点での描写はないため、本当のところはどうだったのか僕には分からないが、この2人ともが、もっと率直に会話すれば、相手に黙っている事も相手を疑う事もなかっただろうに、と思った。そんな簡単にはいかないものなのかもしれないが。
 僕も『僕』と同じ状況だったら、多分、死んでしまった彼女との生活は嫌になるだろう。いつか、僕の感情が相手に理解されなくなってしまうのではないかと思うと、不安になるはずだ。相手は死んでしまっている・僕は生きている、という事実そのものが決裂の原因になるかもしれない。理解し合い続ける事や、信じ合い続ける事は、生者と死者の間でも継続できるものなのだろうか。完全には触れ合えず、互いの想いを疑ってしまい、それでも寄り添い続けるなんて事ができるのだろうか。僕にはできない、と思う。今の僕に幽霊と付き合う覚悟がないからかもしれない。恋人が生者であっても死者であっても、その姿が見えてさえいれば、この2人のように好意だけを軸にして、ずっと一緒にいようと思えるものなのだろうか。
 彼女から逃げたいのか、一緒にいたいのか、最後まで『僕』がどっちつかずで悩ましい。この結末だと、『僕』は彼女と一緒にいる事を選んでいるようだが、迷いがあるのにそれを選んでいいのか、と思ってしまう。
 でも、決断する事はすごく難しい時があるし、どちらも選ばないという選択肢があってもいいんだろうね、と思う。僕はこの小説の読者だから、こうして『僕』の人生選択に茶々を入れ、介入させていただいているが、これが現実なら、僕は『僕』を見ているだけなのだろう。


『SINK』
 悦也の幼い頃の回想、思い出そうとするだけでも苦しい。つらくなる。感想を残すにあたり、適当にはできないため、僕はそれぞれの小説を読み返しながら文字を紡いでいるのだが、本当に、この作家さんの描出や表現力を恐ろしく思う。具体性があって、こわい。水に溺れるという感覚は、僕の中で思い起こしやすい感覚だからかもしれない。
 途中にある「安いからくり」という表現が好きだ。親しかったからこそ言えずにいた想いを悦也は悠助へとぶつける。その場面を読んで、僕は複雑な気持ちになった。直後、悦也の我に返る描写があり、更に複雑な気持ちになった。でも、その感情を20年以上も飲み込んでいた悦也をすごいとも思う。悦也の「はっきり言ってやろうか」からの台詞がいい。僕も、この語彙が欲しかった。それから、悠助はいつ頃から悦也が好きだったのか、というのも少し気になる。
 悦也は田代さんに言われて、「新しい記憶」を考える。あの時の悦也は足を掴まれたのではなく、それを足蹴にしたわけでもなく、助けられていた。そう考えられるだけで、かなり安心できるのではないだろうか。これまでを「生き残り」として生きてきた人にとって、そうあるべくして生き残っていたと思える事は肯定的であれるというか、嬉しい事なのではないのだろうか。
 深く潜っていく悦也には、4人揃って身を寄せ合う姿が見える、というところでこの小説が終わる。ほっとするような、でも寂しいような気持ちになる。しかし、やはり悦也は生き残った事に未だ後ろめたさを感じているのだろうか、と勘繰ってしまう。長く抱いてきた思い込みや自覚の根本は、変えようとしても変えられないものなのだろうか。


 個々についての感想文は以上。

 カバーの中の裏表紙まで読み終えてから、「その歌」もしっかり聴いた。僕はその歌の事も知らなかった。このタイトルにピンとくる人は、きっと、それぞれの小説に出てくるモチーフや状況などにもピンとくるのだろう。小説の中には歌詞と重なる部分がある。「身体バラバラ」と繰り返される詞に、僕は香那を思った。言い聞かすように繰り返されるあの部分は特に、心にじりじりと響いてくる。「膝から肩へ」も聴いていて響いた。

 この短編集の構成もすごい。
 小説を読み進める毎に、僕の思考が追い詰められるようで苦しかった。始まりから順に小説を読んできて、解説を読む頃の僕は、精神的に、もうかなり参ってしまっていたと思う。
 本当に、自分の感情移入や思考の深さに笑ってしまうのだが、まじで無理……もう誰も死なないでくれ……と願いながら読んでいた。現実のテレビやネットなどのニュースでは、流行り病や戦争や人間関係や労働などに苦しむ人たちの情報が流れている。相互作用みたいなものが働いたのか、僕は常に苦しい気分だった。
 僕は何者か、何を信じているのか、それは本当に自分の意思か、あの物体が見えているか、あれを僕は触れられているのか、その感触は現実なのか、僕は実在しているのか、と人間不信に留まらず森羅万象不信になりそうだった。生きる上では信じているべき己をも、不信になりそうだった。

 僕には自我を忘れてしまうまで思考に耽る癖があるようなのだが、この作品を読んでいる間、沈みに沈んでいたらしく、読み終えてからそれに気付いて、少し焦った。気色悪い感想だと思われてしまうかもしれないが、僕は、この短編集に出てくる者たちへ、すごく親近感が湧いていた。その者の感情表現とか境遇とか考え方とかが、自分や自分の周りの人に似ていると思う事が多かった。だから、僕はその者たちへ過度に感情移入し、沈みに沈んでしまっていたのではないか、などと思う。
 ちゃんと僕はここに生きているし、人に比べれば薄情だが己の感情も持っている。そう信じていればそう在れるのだから、時折、遠くへ行きたがる己の意識を、この脳味噌のどこかに縛り付けておかないといけないのだろう、と思った。当てもなく進むから人生に迷うんだよ僕は、とも思う。できるなら、自分の事を信じきって生きていきたいものだ。
 これは僕の推測だが、この作品を知る前よりも、今の僕の脳味噌の皺は増えているはずだ。普段は考えない事も考えながら過ごした。日差しに焼け死ぬ熱さを想像したり、ずっと夏服の恋人の姿を妄想したり、他にもたくさん、考えた。
 この小説たちを読み終えたから、沈みに沈んだ僕が少しずつ浮かんで戻るといいのだが、どうだろう。なかなかに強烈な小説たちで、読んでいて面白かった。つらかった。今後も僕は、生や死と向き合っていくのだろう。



本を読んだよオブ2022年8月

 今年の2日目、新しいパンツを履いた喜びの勢いで、散歩へ出掛けた。本屋の文庫本コーナーに行った時、文章の作り方に親近感のような安心感がある作家さんの名前を見た。その並びの中で『天国旅行』というタイトルを見つけた。この作家さんの事だから、この『天国』は楽しげな意味合いなのだろう、と思った。手に取り、始めから読んでみると、なんとなく僕に馴染む文章だと思った。その時、この本が何をテーマにしているかなんて知らなかった。僕は、『天国旅行』という本を購入した。これが僕の今年の福袋で、僕の人生初の自分で買った文庫本になった。
 本屋を出た僕は歩き疲れていたため、近くの通りにあるベンチへ座った。さっきの本を読もうか、と再び始めから読んだはず。始めのほうのページが少し汚れていて、あの本屋に通いながらこの本を読み進めている人がいたのかも、なんて思った。僕の前を過ぎゆく人たちには連れがいる、でも僕は正月に1人で……と何度か思った。自分で出掛けたくせに、僕は人の目に触れたくなかった。少し気恥ずかしかった。さっきの本屋の店員さんにも、その前までに擦れ違った人たちにも、きっと変な目で見られてしまっていたのだろう。そう思いながら、手元の文章を読み進めた。20分ほどで飽きたか、人目が気になって集中できなかったか、十分に足を休められたからかして、帰った。夕焼けが濃い色で綺麗だった。その後、本の汚れを落とした。

 それからは少しずつ、本当に少しずつ、その本を読み進めた。
 僕は、あまり本を読まない人間だ。本というか、小説を読まない。だから、他人が書いた文章を読もうとすると、少し気合いを入れるぐらいじゃないといけない。その集中も、早くに切れてしまうような人間だ。
 君は、本を読む人間だろうか。もしも、君が小説に慣れた目を持つ人間なら、僕の文章はどう見えているか教えてもらいたいものだ。
 学生時代の僕は、小説を読まないのに図書委員になってみたり、自分で物語を作ってみたりしていた。小学生時代は絵本や詩集など、中学生時代は落語の本や舞台台本や写真集など、高校生時代は建築関係の本や手芸本などを読んでいた。小説なんて、国語の教科書に載っている量ぐらいがギリ読める程度だった。国語の教科書よりも、理科の授業で見た実験記録や、学級日誌に書かれている文章のほうが好きだったと思う。今でも随筆文を好んでいるし、ツイッターで誰かの感情表現を眺められる事を至福だと思う。
 話が逸れた。

 僕は少しずつ『天国旅行』を読み進めた。結果から伝えると、この本を読み始めてから読み終えるまで7ヶ月も掛かった。驚異である。僕という奴が本を1冊きっちり読み終えた事も勿論、驚異なのだが、こんなに時間が掛かるとは思っていなかった。達成感があった。
 詳しくは「読書感想文・『天国旅行』編」部分に書いてあるはずだが、僕はこの本がこういう内容だとは知らずに読み進めていた。僕はこの作家さんのエッセイみたいな本を知っているぐらいで、その時の印象が「赤裸々にハッピーで楽しげな文章を書く人」という印象だったため、この重量だと想定しておらず、最初の1編を読み終えてから次を読むまでにかなり時間を空けてしまった。本当に少しずつ読み進めて、先日やっと最後まで読み終えた。
 明日にでも感想文を書こう、と僕は思っていた。でも、書けなかった。僕は影響されやすいからだろう、すごく苦しかった。小説の内容を思い返そうとすると、つらいと感じた。それから半月以上が過ぎた今、やっと感想を文章に起こせている。
 僕は、この感想文を書きたかった。この、読了後のどうしようもない感情を、僕だけが抱えているのは勿体ないと思った。誰かに知ってほしいと思った。感想をネット上で公開するとして、どこを選んでもいいとは思ったが、本を読む人の多いだろう場所で公開しようと思った。そのほうが同じ本を読んだ人に見つけてもらえる可能性も高いだろう、そう思ってここを選んだ。
 この記事が公開された後、これは誰に見つけてもらえるか、読み手にどう思われるか、僕には分からない。ただ、こうして重たくなってしまう気持ちを共有できるといいと思った。
 この本を読んで、このテーマを知って、これらを読了した誰かが、僕と同じように自覚なく落ち込み、なんとなく悶々とした気分で時間を消費してしまっていたのではないだろうか。この本を手にする前と同じ星に生きているはずなのに、重力がいつもよりキツいと思った人がいるのではないだろうか。そういう人へ「それ分かるよ」と伝えられたらいいのにな、と思っている。

 話は変わるが、今年の僕は、なんとなく「つれぇ」と思いながら過ごしている。
 特に関係ないはずなのだが、僕は今年の初詣のおみくじで凶を引いた。その横には「自分から人に声を掛けようね」「前向きでいろよ」「ストレスが溜まりやすいぞ」と添え書きされていた。
 僕の個人的な考えだが、「病は気から」という言葉は体調面へだけでなく、おみくじや占いなどに対しても通ずると思っている。だから、僕が今年を生きていて「つれぇ」と思ってしまうのも、年始に見た凶という予報を僕自身が受け入れているからだろうと思う。おみくじからは今年の僕が凶だと予報されたが、つらい以外に、幸せに過ごせた日もたくさんある。
 この本を手に取った数日後、僕はおみくじを引いたわけだが、そのおみくじが僕の「つれぇ」を予測していたのだろうか。それとも、引き寄せる、というような事が起こったのだろうか。僕は、この本を読んで「つれぇ」と思ってしまう事になる。
 もしや今年の僕の「つれぇ」は、凶の予報ではなく、この小説たちに影響されていたのではないだろうか、と僕は思った。なんなら、凶に影響されるよりも現実味がある。
 僕は、この本に7ヶ月の時間を割いた。小説の中では必ず誰かが死んでいて、きっと僕は登場人物へ感情移入するのが死ぬほど上手くて、勝手に死んだ気になってしまったり人を亡くした気になってしまったりしていて、だから「つれぇ」と思いやすかったのではないか。そのぐらい、この小説たちの中にある表現が僕に影響していたのではないか。そう思うと、なんとなく合点がいった。僕は、この本に突き動かされていたのかもしれない。
 この本を読み終えて、僕はすっかりくたびれた気分だ。まだ今年の半分と少ししか過ごせていないから、僕が凶を信じている間は、もう少し今年の僕の凶は続くのかもしれない。ある意味、おみくじの「前向きでいろよ」も「ストレスが溜まりやすいぞ」も、この本を手に取る僕への忠告だったのかもしれない。でも、死を思う事は後ろ向きなのだろうか、などと、また考えてしまう。これでストレスを溜めるのだろうか。それでストレスを溜めてきたのだろうか。そのストレスを1人で考え込まず、相談がてら「自分から人に声を掛けようね」という事なのだろうか。やはり、おみくじを信じてしまいたくなる。僕は自分に都合のいい解釈をして、今までを生きている。
 僕にとってつらい事が以後に起きるとしても、塞ぎ込むまでの事はないといい。
 
 僕は、この読書ができて良かったと思う。人生で初めて自分で買った文庫本が、こんなにも僕に影響を与えてくれて、興味深いテーマを取り扱っていて、魅力的な文章で、本当に良かった。もう少し長く生きてから読めば、また違った感想になるのかもしれない。その時を楽しみに生きるのもいい。
 僕はこの『天国旅行』を、生きている間に読めて良かった。なんつって。


 以上です。
 小説を読むというのは楽しいものですね。また何かを読んだ時は、感想文を書きに来ます。
 今回は、縛りを設けず書いた記事だったので、前回までの記事とは印象が違って見えるかもしれません。面白味に欠けていたら、ごめん! でも、この感想を綴れて良かったです。

 読んでいただきまして、ありがとうございました。


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