挑戦

 あなたは何かに挑戦したことがあるだろうか。
 人間として生きていると、物心つく頃には何かに挑戦していることだろう。人間というのは、生まれてから親を認識したり、よちよち歩いたりできるようになる。それは本能的にできるようになることなのかもしれないが、そんな人間が勇ましいと思う。もっとも、生まれた時点で僕らは人生に挑戦しているとも言えるだろう。

 僕の挑戦は、今夏の某日にあった。
 オリンピックが開催され、世界中の誰かが何かに挑戦していた瞬間でもある。広い世界の志に紛れて、僕も、とある挑戦をした。
 時刻は19時38分、始まった。緊張しながらも、僕は挑んだ。そして19時56分、僕は挑みきったのだ。
 結果があるとすれば、それは『成功』だった。
 そこには達成感と満足感があった。その日のどんなことも、この『成功』を導き出すための伏線だったのだろう。いや、もしかすると、それまでの日々の全てが『成功』の伏線だったのかもしれない。そう思えるほど、自分が強くいられる気がした。他の誰でもなく、当時の僕自身が挑戦に『成功』したのだと。


 さて、あなたが神経質で理屈っぽい読み手なら、もうお気づきだろう。この文章には、まだ記されていない要点がある。それは、僕が挑戦したことの内容について、だ。
 なぜ、僕は挑戦内容の説明を渋り、勿体つけているのか。その理由はふたつある。ひとつは、内容なんて知らずに僕が挑戦したことを捉えてほしかったから。もうひとつは、単純な記録になることを避けようとしたから。
 そもそも、ここまでを読んだ人間がいるのかすら今の僕には分からない。僕はいつかの僕に向けて、この文章を残しているだけだ。

 今、活字を丁寧に目で追っているあなたへ。少しの間、僕に焦らされてはくれないだろうか。
 僕の挑戦内容の説明をする前に、この文章が少し面白くなる魔法でもかけてみよう。短くていい、少しの時間を割いていただきたい。
 もし面倒なら、この先は一切読まず、画面を閉じていただこう。その場合、この文章への評価は、あなたの中だけで完結させておいてほしい。
 もし時間を割いていただけるのなら、あなたに少し考えてほしいことがある。僕は何に挑戦したのか、どうして僕は読み手を焦らそうとしているのか。この2点について、どんな想像がつくだろうか。

 先に伝えておくが、僕はこの挑戦を誰かに薦めるつもりはない。僕の記録として、ここに残したいだけだ。しかし万が一、この投稿が消えるなんてことがあれば、その時は生ぬるい目で「消えたな」と認識していただけると幸いに思う。それ以上を掘り返す必要はない、すなわち他言無用である。


 それでは、僕が挑戦した内容の説明をしよう。
 僕が挑戦したこと、それは……『ドッグフードを食べること』だった。
 ああ分かっている、馬鹿なことだ。落ち着いてくれ。ああそうだ、今から経緯についても説明する。みんな静かに聞いてくれ。だから知らずにいてほしかったんだ。どうせ僕はペット愛好家から多大なるバッシングを受けてしまうだろう。ああ、きっとそうなる。これ以上、馬鹿だと思われるのはごめんだ、僕の気が病んでしまう。そうだ、それで間違いない。みんなが言う通り、僕は馬鹿なのかもしれないね。でも理由があるんだ……頼む、落ち着いてくれ。まずは冷静になって、そう……ゆっくり息を吸うんだ。そして、ゆっくり息を吐く……そう。いい子だ。少しは落ち着いたかい……ああそうだ、勿論……それは説明するとも。

 経緯について説明しよう。それはとてもシンプルなものだ。ドッグフードを食べたくなった。それだけのために、僕はドッグフードを買って食べた。

 その数日前、僕は、ふと犬のことを想った。
 昔から、僕の周りには犬が多かったように思う。賢い犬、強面な犬、よく吠える犬、僕をかじろうとする犬、おしっこをする犬、しっぽが柔らかい犬、毛が長い犬、いつも抱きかかえられている犬、リードに全体重を預けている犬、顔が笑ってる犬、いろいろな犬がいる。しかし、僕は犬と暮らしたことがない。それなのに、いろんな犬を見たことがあるし、いろんな犬に触ったことがあるのだ。最近は外に出る機会が減ったからか、あまり犬を見ていない気がしていた。
 
 小さい頃の僕は、近所に住んでいた外飼いの犬と、よく遊ばせてもらっていた。(その犬のことは名前で呼ばせていただいていたのだが、個犬情報のため、ここでは「犬」と称する)
 当時は犬に会うのが楽しかった。その飼い主さんが親切だったからこそ、僕は犬と仲良くできていたのだろうと思う。友人を連れて会いに行ったり、もりもりと餌を食べる犬の姿を眺めたりしていた。しかし中学生になってから、犬を見かけることはあれど、犬と遊ぼうとは思わなくなった。次第に犬を見る機会も減った。それから数年が経ち、高校を卒業する頃だっただろうか……学校から帰る途中だった僕は、久しぶりに犬を見た。犬が少し老けた顔で、じっと僕を見つめていたのだ。
 それ以降、犬がどうなったか僕は知らない。今はどうしているのだろう、そんな想いが頭の中を過った。犬との連絡手段なんてないし、飼い主さんの名前すら分からない。だからと言って、その家があった場所へ押しかけるなんてこともできない。もし会えたとしても、飼い主さんが僕を忘れている可能性がある。最後に見た犬の姿を思い返すと、嫌なことを考えそうにもなった。
 どうにか当時の感覚を呼び起こせないだろうか。何か、あの頃を思い出す材料があればいいのに。そうだ、ドッグフードの匂いがあれば……。

 ご理解いただけただろうか。

 犬と暮らしているわけでもない僕は、思い出を振り返りたいがために、ドッグフードを買う決意をした。
 そうと決まれば僕の意思は固い。正直なところ、犬が食べていたドッグフードの匂いなんて覚えていない。しかしながら、あの頃の雰囲気を作るにはドッグフードが打ってつけだろう。

 僕はドッグフードを選んだことがなかった。ドッグフードなんて、今までの僕にとっては目に入るか入らないかの存在だった。堂々とペットショップへ向かう勇気はなく、通販サイトにて評判のいいドッグフードを購入することにした。様々な検索パターンを駆使して、理想的なドッグフードを探す。
「すごい、僕の昼飯よりも高価なドッグフードがある……」
 犬と暮らす知識が皆無の僕には、ドッグフードを1つ選ぶだけのことがとても難しく思えた。実際に犬と暮らしている人は毎日が大変なのだろう、とも思った。
 そして、ついに理想的なドッグフードに出会えた。適切な数量を入力し、僕は注文確定ボタンを押した。

 後日、荷物が届いた。箱の中に、想像していた通りのドッグフードが佇んでいる。
 慎重に取り出し、パッケージの前後左右、底面も確認した。僕は、とある表記を目にする。
『犬以外に与えないでください。』
 全身がひりつくような感覚だった。しかし、それは当たり前のことだった。この袋に入っているのは「ドッグフード」だ、分かっている……それでも僕は、決意を曲げたくなかった。それに、ドッグフードを購入する時、既に食べることを前提で商品を選んでいたのだ。
 しかし、僕は人間だった。仕方のないことだが、それだけは変えられなかった。少しは冷静になろうとしたが、冷静になったら終わりだと心の中で叫ぶ自分がいた。僕の決意は揺るがなかった。

 僕は、おもむろにミニテーブルを準備した。表面にはキャラクターが大きくプリントされた、組み立て式の低い台。あの頃から使っている代物だ。脚のばねが錆びてしまっているため、軋む音がする。その上に、飲み水を入れたガラス瓶を置く。これは1年以上前に買った甘酒の空き瓶。あの頃には全く関係ない。
 白米も調味料もジュースも要らない。ドッグフードのパッケージには「健康」と表記されている。何も心配はない、本来の味を楽しもう。もしものことがあったとしても、ドッグフードを食べた人間のしたことでしかない。何があろうと僕の責任で、全生物からの信頼を失うという覚悟をするだけだ。

 できる準備は全て整った。いよいよ、その時がくる。普段より慎重に、袋の端を鋏で切った。
 密閉された口を開いた瞬間、僕は背徳感と高揚感の入り乱れたような、妙な気持ちになった。ドッグフードの匂いがしたからだ。しかし、懐かしさは感じられなかった。
 前日まで漬け物が入っていたタッパーの蓋へ、そのドッグフードを流し入れた。盛りつけの量は少なめで、確か小型犬の1食分と近い量だったはず。パッケージに表が載っていた。僕は、犬のために調整された食事をどれぐらい摂取してもいいのか分からなかった。未知のことを恐れてしまっていたのだろう、やはり僕は人間だったのだ。
 僕が選んだドッグフードは、いわゆる『カリカリ』という形状のものだった。ドッグフードの中でもオーソドックスな形状だと思う、ドッグだけに……ガハハ。
 粒を見ると、いくつが種類があるようで、中には骨の形を模した粒もあった。しかし、その可愛らしい色合いや形を見て「人間に対しての視覚的な工夫が施されている」と僕は思った。端的に伝えるなら、「人間が犬のために作った」という理が目についた、ということだ。このカリカリを食べる犬たちは、骨型の粒のことを骨型の粒だと認識できるのだろうか……そんな疑問が僕の中に湧いていた。

 我に返り、時計を見る。袋を開けてから数分が経っていた。もう待っている必要はない、とりあえず食べよう。僕は粒をつまんで口へ入れた。
 ……おいしい。僕は笑ってしまった。味なんて分からない。僕は他のドッグフードの味を知らない。味の良し悪しが分からない、比べようがない。それでも、おいしいと思った。
 静かな部屋の中で1人きり、ドッグフードを口に入れた人間が笑っている。変なの。何してんだよ、僕……。
 わけも分からず笑いながら、僕は次々と粒を口へ運んだ。噛み応えがあり、いつも食べている煎餅より硬かった。粒の形によって、微妙に味が違うようだ。

 そうして、出した分の粒がなくなった。自分の口が獣臭くなっているような気がして、また笑った。このまま食べ続けていれば、僕は犬になれるのかもしれない……なんて、ふざけたことを考えた。

 僕は人生で初めて『ドッグフードを食べること』に挑戦した。思い出を鮮明に引き出すことはできなかったが、少しの間、至福が訪れたのは確かだ。
 あの頃に見ていた犬を思い浮かべ、自分のためにドッグフードを選び、犬のいない家にドッグフードが届き、ちょっとした好奇心のおかげでドッグフードの食感を知り、人間は犬になれないということを確信したりしなかったりした。
 挑戦した僕は、達成感と満足感に包まれていた。ドッグフードに興味を持てた。僕は挑戦に『成功』した。そう思っている。


 僕の記録は以上だ。かなり長文になってしまったが、僕は満足している。

 さて、あなたが想定していた僕の挑戦内容は、どんなものだったのだろう。差し支えなければ、教えていただきたいものだ。
 これは余談だが、僕はキャットフードも食べたことがある。

 文章を作っていると腹が減る。この後は、まだ残るドッグフードをつまみながら過ごすとしよう。

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