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私の教材研究法(4)ー夏目漱石『こころ』

今回は、夏目漱石の『こころ』を題材として、教材研究をしてみたいと思います。少し長いですが、『こころ』(下)の一節を以下に引用します。

(1)彼の口元をちょっと眺めた時、私はまた何か出てくるなとすぐ感づいたのですが、それがはたしてなんの準備なのか、私の予覚はまるでなかったのです。だから驚いたのです。[④彼の重々しい口から、彼のお嬢さんに対する切ない恋を打ち明けられた時の私を想像してみてください。]私は彼の魔法棒のために一度に化石されたようなものです。口をもぐもぐさせる働きさえ、私にはなくなってしまったのです。
 [①その時の私は恐ろしさの塊と言いましょうか、または苦しさの塊と言いましょうか、なにしろ一つの塊でした。石か鉄のように頭から足の先までが急に堅くなったのです。]呼吸をする弾力性さえ失われたくらいに堅くなったのです。幸いなことにその状態は長く続きませんでした。私は一瞬間の後に、また人間らしい気分を取り戻しました。そうして、すぐしまったと思いました。先を越されたなと思いました。
 しかしその先をどうしようという分別はまるで起こりません。恐らく起こるだけの余裕がなかったのでしょう。私は腋の下から出る気味の悪い汗がシャツにしみとおるのをじっと我慢して動かずにいました。[②Kはその間いつものとおり重い口を切っては、ぽつりぽつりと自分の心を打ち明けてゆきます。私は苦しくってたまりませんでした。]恐らくその苦しさは、大きな広告のように、私の顔の上にはっきりした字で貼り付けられてあったろうと私は思うのです。いくらKでもそこに気のつかないはずはないのですが、彼はまた彼で、自分のことに一切を集中しているから、私の表情などに注意する暇がなかったのでしょう。彼の自白は最初から最後まで同じ調子で貫いていました。重くてのろい代わりに、とても容易なことでは動かせないという感じを私に与えたのです。私の心は半分その自白を聞いていながら、半分どうしようどうしようという念に絶えずかき乱されていましたから、細かい点になるとほとんど耳へ入らないと同様でしたが、それでも彼の口に出す言葉の調子だけは強く胸に響きました。[③そのために私は前言った苦痛ばかりでなく、時には一種の恐ろしさを感ずるようになったのです。]つまり相手は自分より強いのだという恐怖の念がきざし始めたのです。(夏目漱石『こころ』:太字や[ ]は引用者による)

以上の一節のうち、高校の現代文の授業で問題となりそうな箇所は、太字にした「私は彼の魔法棒のために一度に化石されたようなものです」と「先を越されたな」の部分でしょう。一つ一つ見ていきましょう。

1.「私は彼の魔法棒のために一度に化石されたようなものです。」

まず、この文で使われている「のために」ですが、これは「[名詞句]のためにX」あるいは「[述語]ためにX」の形で、次に述べるXの原因・理由をあらわす語です。また、「化石する」とは「石になること」を意味するので、「化石された」はその受身形で「石にさせられた」という意味になります。すると傍線部は、

(2)彼の「魔法棒」が原因となって、「私」は一度に石にさせられたようなものだ。

といった意味になるでしょう。

次に、この(2)の中の「『私』は一度に石にさせられたようなものだ」とはどのようなことなのか考えてみましょう。この文では、「私」の変化を「石にさせられた」という変化に喩えています。そこで、「石」を使った比喩が、本文の他の部分に出て来ないかと探してみると、すぐ次の段落(①の[ ]で囲んだ部分)にも出てくることに気づきます。

(3)その時の私は恐ろしさの塊と言いましょうか、または苦しさの塊と言いましょうか、なにしろ一つの塊でした。石か鉄のように頭から足の先までが急に堅くなったのです。

この(3)から考えると、「『私』は一度に石にさせられたようなものだ」というのは、「恐ろしさと苦しさとで、頭から足の先までが急に堅くなったこと」を、「一度に石にさせられた」という直喩によって表現していると考えられます。すると、上の(2)は結局のところ、次のような意味になるでしょう。

(4)彼の「魔法棒」が原因となって、「私」は、恐ろしさと苦しさとで、頭から足の先までが急に堅くなった。

この(4)からは、次の(5)のような因果関係が読み取れます。

(5)彼の「魔法棒」⇒「私」が恐ろしさと苦しさとを感じる。⇒「私」の頭から足の先までが急に堅くなる。

では、「『私』が恐ろしさと苦しさとを感じた」ことの原因となった「彼の魔法棒」とは、一体なにを指しているのでしょうか? まずは「『私』が苦しさを感じた」原因から考えていきましょう。それは②の[ ]で囲んだ部分から読み取れます。

(6)Kはその間いつものとおり重い口を切っては、ぽつりぽつりと自分の心を打ち明けてゆきます。私は苦しくってたまりませんでした

「Kが自分の心を打ち明けている」ちょうどその時、「私は苦しくてたまらなかった」と言っているわけですから、「『私』が苦しさを感じた」原因とは、「Kが自分の心を打ち明けたこと」=「彼の自白」であると考えて間違いはないでしょう。

次に、「『私』が恐ろしさを感じた」原因について考えましょう。これは、本文の少し後の部分( ③の[ ]で囲んだ部分)に次のように書かれていることから読み取れます。

(7)そのために私は前言った苦痛ばかりでなく、時には一種の恐ろしさを感ずるようになったのです。

(7)の冒頭には原因・理由をあらわす「そのために」があるので、「『私』が恐ろしさを感じた」ことの原因とは、「そのために」の「その」が指している内容だということが分かります。そして、この「その」が指しているのも、「彼の口に出す言葉(=彼の自白の言葉)の調子」ですから、結局のところ、「『私』が恐ろしさと苦しさとを感じた」原因とは「Kが自分の心を打ち明けたこと」=「彼の自白」にほかならないことが分かります。

すると、(5)より、「『私』が恐ろしさと苦しさとを感じた」原因=「彼の魔法棒」ですから、「彼の魔法棒」=「Kが自分の心を打ち明けたこと」=「彼の自白」ということになるはずです。

それでは、「K」はどのようなことを打ち明けた(自白した)のでしょうか? それは、(1)の④の[ ]で囲んだ部分

(8)彼の重々しい口から、彼のお嬢さんに対する切ない恋を打ち明けられた時の私を想像してみてください。

から分かるように、「お嬢さんに対する切ない恋」にほかなりません。

以上のように考えると、本文の「私は彼の魔法棒のために一度に化石されたようなものです。」とは、次のような意味であると説明することができるでしょう。

(9)Kがお嬢さんに対する切ない恋を「私」に打ち明けたために、「私」は恐ろしさと苦しさとで、頭から足の先までが急に堅くなった。

2.「先を越されたな」

「先を越す」とは、辞書で調べると、「相手より先に物事を行う」という意味です。「先を越された」はその受身形なので、「相手に自分より先に何かを行われた」といった意味になります。

ここで、この「先を越された」という表現が、何の先行する文脈もなく、使われたと想像してみましょう。そのような場合、私たちは以下のBさんのような疑問を持つのではないでしょうか?

(10)Aさん「私は先を越された。」Bさん「誰にどのようなことで先を越されたのか?」

これは、「先を越された」という述語が、「~が」にあたる名詞のほかに「~に」にあたる名詞と「~で」にあたる名詞を、日本語学でいう「必須補語」として取るからであると考えられます。「必須補語」は、

(11)①その述語が現れる文中に存在するか、②先行する文脈の中に存在するか、③その文が発話された状況から特定できるか、のいずれかの条件をかならず満たさなければならない。

ということが知られています。(これについて、詳しいことは庵功雄著『新しい日本語学入門』第2版の§5を参照してください。)ここでは、Aさんの発話が①~③のどの条件も満たしていないので、Bさんのような疑問を誘発したのです。

これと同様に、本文中の「先を越されたな」も、「~が」「~に」「~で」にあたる名詞を必須補語として取るはずですが、この述語が現れる文の中には、このうちのどの名詞も存在しないので、(11)より、「先行する文脈の中に存在する」か、「発話状況から特定できる」かのいずれかでなければなりません。そこで、以上の2つの観点から、それらの名詞を特定していくと、まず「~が」に関しては、

(12)は一瞬間の後に、また人間らしい気分を取り戻しました。そうして、すぐしまったと思いました。先を越されたなと思いました。

という先行する文脈から、代名詞の「」がそれに当てはまることが分かります。次に「~に」と「~で」に関してですが、これはこの文が発話された状況から特定することができるでしょう。(正確には、この文は「私」が実際に発話したものではなく、心の中での発話ですが。)この文が発話されたのは、上の(9)の直後です。

(9)Kがお嬢さんに対する切ない恋を「私」に打ち明けたために、「私」は恐ろしさと苦しさとで、頭から足の先までが急に堅くなった。

すると、「~に」と「~で」にあたる名詞(句)はそれぞれ、「K」と「Kがお嬢さんに対する切ない恋を『私』に打ち明けたこと」であると考えられます。このように考えると、本文中の「先を越されたな」という表現は、結局のところ、次のようなことを意味していることが分かります。

(13)私はKに、Kがお嬢さんに対する切ない恋を私に打ち明けたことで、先を越された。

さらに、上でも書いたとおり、「先を越される」=「相手に自分より先に何かを行われる」ですから、この(13)からは、

(14)「私」もまたお嬢さんに対する恋心を持っていて、それを打ち明ける機会を待っていたということ、つまり、「私」とKとは、お嬢さんを取り合う恋のライバルだったということ。

も読み取ることができます。

以上、長々と『こころ』の教材研究について説明してきましたが、『こころ』に限らず、どんな文学作品も、使われている語彙や文法、修辞法などに基づいて、一定の方法で丹念に読み解いていけば、かならず一つの(あるいは、多くの読者が納得できる)解にたどりつくことができます。国語の授業で教えるべきことは、「新奇な(奇抜な)解釈」などではなく、そのような「一定の方法」であると私は考えます。



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