宿題について考えること

今は夏休み。お盆すぎ、夏休みの後半戦という時期である。小中高に通っている人は、学校の夏休みの宿題の提出日が近づいてきて焦っている人も居るだろう。そんな時期だからか、夏休みの宿題についてのニュース記事も見かけるようになった

この記事を見つけた時、Twitterでつぶやこうかと思ったが、思ったことをつぶやくには字数が足りなかった。かといって、私のブログでは方向性が違うので、ノートに考えを書くことにした。

まず、宿題代行サービスであるが、引用した記事からも分かるように、どちらかというと「小学生」の宿題の代行が多いように感じられる。読書感想文、絵日記、自由研究・・・こういったものが多い。読書感想文ならば、中学生や高校生もあるだろう。対象範囲は結構広く、中心が小学生とはいえ、学年が上がっても使えるサービスといえるだろう。

宿題代行サービスを一度検索したことがある。すでに2年くらい前だが、そのときでさえ、様々なサービスが展開されていた。私がそのときに驚いたのは、大学生向けの宿題代行サービスがあることだった。レポートや卒業論文を代わりに作成してくれるというものだ。1文字いくらという設定で、テーマと内容を伝えると代行してもらえるのだ。
もちろん、そのようなことをしても、きちんとした大学ならば通過できないだろう。「口頭試問」を置いていれば、の話だが、人数を多く取る大学ではそういうことをしないため、通過できてしまうかもしれない。恐ろしい話だが、学位を買うようなことをする人間が一部にはいるわけだ。

さて、このように考えると、宿題代行サービスの対象範囲は広く、様々な場面で代行されている。確かに世の中の仕事には苦手なことはアウトソーシングする方法がある。それを学校という現場に持ち込めば同じ発想なのかもしれない。
しかし、宿題は仕事ではない。各個人の能力を伸ばすためのものであるはずだ。と、ここで私は「はずだ」が気に掛かっている。「はず」なのだが、そうではなくなっている場合があるのではないかということだ。

宿題を出題する側にきちんとした「意図」があるかどうかということである。

私は教育の現場に入ったとき、その学校での宿題の出し方は「例年これを出しているから」だった。高校入試が終わり、入学するまでの間の宿題が、前年通りで変更することは反対された。もう何十年と同じような宿題を出し続けているのだ。そこで私は長く勤務する先生に尋ねた。

「どうして、これを宿題にしているのですか?」

この質問をしたら、叱られた。

「そんなことも分からないのか。自分で考えろ。」

明確な答えが返ってこない。私は私なりの考えで、この宿題の意図がずれていることを指摘した。

「現在の学力水準からして、この課題は難しすぎる。結局解答を写すだけになっていて、私たちはその写してきたものをチェックしているだけで有り、生徒にとっても、教員にとっても時間の無駄である。
入試のシステム上、高校に入るまでに時間があるので、学習させたい気持ちは分かるが、結局は間に合わせるためになるため、短時間で効果的なものに絞った方が良い。1日1時間で計算されているようだが、1教科でそんな計算をすれば、5教科で1日5時間になる。20日ほどの計算だが、その合計時間になると、到底こなせない量となるのではないか」

時間的、内容的に難しすぎることを伝えた。ベテランの先生は答えに窮した様子であった。その年度は間に合わなかったが、次年度担任になった学年では宿題の見直しをして、量を減らし、出題内容も変更することができた。結局何も考えずに、「例年通り」にやっていれば間違いないので、変更することを嫌がっていただけなのである。

高校の現場でもこのような状況である。それを考えると、小学生の夏休みの宿題は、本当に考えられているのだろうかと思う。昔であればそれが非常に有効であったであろうし、子どもの能力を伸ばすものだったと思う。

読書感想文であれば、本を手に入れることが困難な状況であった時代であれば、本を読みたい欲求も高く、図書館など公共の施設を利用し、そこで新たな本との出会いがあったりと、本来の目的以上の効果が得られる課題であったと思う。
しかし、現代では、インターネットで本を買うことが出来るし、本そのものを買わなくても電子書籍で読むことも出来る。そして、あらすじやハイライトはアマゾンのサイトを見れば手に入れることができる。もはや自力で書く必要はほとんどないのである。

自由研究であれば、物があまり手に入らなかった時代であれば、手近な物をいかに使って作り上げるか、手近な物をいかに観察するかなど、方法がいくらでも考えつくことが出来る。身近な疑問の発見とそこへのアプローチが狙いとなる。そして、その中で感じた不自由は将来こうしたいという欲求の原動力となっただろう。
しかし、今は、自由研究セットが売っている。顕微鏡も安く手に入る。身近な物への疑問は、インターネットを調べればある程度解決できる。そういう時代になってしまった。知識が手に入りやすくなった結果、自由に研究するというのが非常に難しくなっているのだ。
そうなれば、お金を出して買うということが発生してきても致し方ないと思う。

絵日記も考えようである。昔は学校を卒業して、大学まで出るというのは一部のステータスのある家庭の話であり、中学や高校を出れば働くのが当たり前であった。そして、その時代の就労先で日誌や記録を作るためには、絵日記で習慣化しておくことは一定のスキルとして役立ったのかもしれない。
しかし、現代ではどうだろうか。絵日記をつけることはスキルの役に立つのだろうか。私は、絵日記で分かることはその生徒の家庭の様子くらいではないかと思う。ただ、絵日記がすべて本当だとは限らない。ウソを描いたって構わないわけである。そうなってくると、一体どういう意図があって出題されるのか分からなくなる。

というふうに考えていくと、宿題がなぜ出されているのかということになる。

宿題の意図は出された側が考えるものだという発想があるが、私はそれはむちゃくちゃだと思っている。出題する側が意図も分からず出したものを、受け取った側が意味を見いだして行うというのは、「意味ない仕事を押しつけられて、その仕事に価値を見いだして取り組み評価されない」という、ブラックな構図になる。そのミニマムを学校で生み出してどうするんだと思う。

しかし、私は学校現場ではベテランの多くは「例年通り」が好きだ。もちろん、色々と考えて行動する先生もいるが、多くは「例年通り」だ。若い先生も増えてきたが、指導教官が「例年通り」の先生であれば、若い先生も「例年通り」の先生になってしまう。恐らく、現在のベテランの先生の先生も「例年通り」の先生だったのだろう。悪しき習慣が循環しているのだ。

そこから脱しようと、異を唱えると、周囲に味方がいなくなる。新しいことを行うことを嫌う学校の体質があるからだ。これまでの長い歴史を持った学校であれば、良かった部分を残しつつ、新しく変えていくところは変えていくべきなのである。それが伝統校であり、その学校の強さの根幹を成すと考えられる。

宿題一つとってもその学校の方針が見えてくると思う。もちろん入ってからでないと宿題は分からないかもしれないが、今の世の中SNSなどである程度掴むことができると思う。もちろん、ただ単に「多い」って叫んでいるものをみて、鵜呑みにする必要は無いと思う。どういう取り組みをしているのか分かる場所やどういう先生がいるのかを知ることができると大きい。そういう情報を掴むことが大切になってくるだろう。

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