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ノートテイクの余白

新しい世界を発見する瞬間が好きです。
自分の居場所を見つけたような気がするのです。

ノートテイクとか要約筆記という言葉、聞いたことがありますか?
難聴者の耳の代わりに、話者の話を手書き文字やパソコンを使って伝えること。この言葉を知って一番に思ったのは、「それなら出来そうじゃん!」ってこと。誰かの困りごとを助けられるみたいな話ではなくて、ごく自然に。自分が参加するついでに、みたいな気軽さで。

調べてみたら、「要約筆記者登録試験」という試験が年に1度ありそれに合格すれば県に要約筆記者として登録できる仕組みがある様です。受験するためには市町村などで実施している「要約筆記者養成講座(84時間)」の受講が必要など、厳格なルールがありました。そこではじめて授業のノートテイクやイベントなど、要約筆記が必要な現場へ派遣されるながれらしい。(もちろん守秘義務なんかも担保したうえで)

そう考えると、何かのついでになんて気軽に言えないことだとは思う。思うけれど、その場を一緒に体験するみたいなことは、もっともっと気軽に考えて良いんじゃないかな。 英語をバッチリにしないと海外旅行には行けないと考えるんじゃなくて、根性と勢いでなんとかしてしまうぞ。みたいな気軽さで。(とかいいながら、海外にいったことないんですが)

ノートテイクのことをもう少し知りたくて、検索していたら「ノートテイクに求めること」という題名のブログ記事を見つけました。気に入ったので、少し引用したいと思います。実体験を数年後に振り返って書いた文章のようで、フランスの哲学者ロラン・バルトが分類した言語の3つの種類を下敷きにこんなふうに表現しています。

大学の教授は、どういう「言語」で話し、どういう「好み」で話し、そしてどういう「表現体」を選択したのか。私はそれを感じ取りたいのである。
https://ameblo.jp/sugars-le-penseur/entry-11618038623.html

この感じがまたノートテイクの魅力を引き立ててくれました。「要約筆記」の字面だけでは、必要なことだけを羅列して伝えるように感じられる。でも、この何を感じとりたいかという要望には余白が含まれていた。授業には全くもって必要のなさそうだけれども、その場で話されたことであれば冗長なことを含めて文字にする。それは、僕が大切にしたい #わざわざ だと思うから。

思い返せば、高校時代の数学のおじいちゃん先生は「X」を「エッキス」と発音していたし、国語の先生は、ことあるごとに「支離滅裂になるなよ」と繰り返していた。それらは授業にはまったくもって関係は無かった。けれど、20数年経った今もその姿を思い浮かべられること自体には意味があるように思う。

そういう一見意味がなさそうなことを取り除かないこと。そんな文化を内包した活動には首を突っ込んでいきたい。

#ノートテイク #わざわざ #要約筆記  

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