男がデートで奢るべきかどうかの議論への1つの論点


毎年恒例という感もある定期的に盛り上がる御題だが、それだけにほとんど論点は出尽くした感がある。

自分は特に意見がない、という見解であり、要はそれぞれの男女がその関係性において決めれば良い事であり、一般論としてどうすべきという結論は出ないだろうという当たり前のものである。

それを踏まえた上で、抑えられていないと思われる論点を指摘したいのだが、その前に、議論の前提を確認したい。


議論の前提:付き合う前のデートにて

御題としては「デートで男が奢るべきか」と提示されていることが多い。「デート」の定義は難しいのだが、単なる友人・知人ではなく、恋人になるかどうかを決めるマッチングのプロセスのことだと思われる。

既に付き合っている男女でも「デート」と言うと思うが、あまりそれは前提とされていないと思われる。というのは、既に付き合っている関係なら、その関係性の中で奢るかどうかが決まって来るし、その意見が合わないのなら、そもそも付き合うという事にならないだろうからだ。


女性側の一般的な意見と、それへの反論

一般的な「男性が奢るべき」という議論は、女性の方がデートにおいてコストがかかることを主張していると思われる。ただ、この手の議論は筋が良いと思えない。

確かに、一般的に女性の方がより容姿で評価される傾向があり、それに応じて女性の方が容姿に時間とお金をかけている、というのは本当だと思う。もちろん、あくまで「一般論」の「傾向」の話である。

しかし、それなら男性サイドが全く女性から評価の対象にされていないかといえば、もちろんそんなことはない。男も容姿や身長などの評価を受ける。しかし、容姿などはある程度清潔感を大事にするとかはできるが、身長などはどうしようもない現実であり、容姿に関しても女性ほど手の込んだことをする余地はない。逆に言えば男はその点では努力しようがないということでもあり、それはそれで残酷な現実だと思うが、女性ほどそこで評価されはしない。

女性から男性への評価は両者の年齢、結婚をどの程度前提にするかで変化すると思われるが、大きいのは収入であり、その元になる勤め先の企業のステータスだったり、学歴だったりする。そして、それらは過去と現在、そして将来における男性の努力の賜物である。もちろん、最近では「親ガチャ」などの言葉で、それが生まれつき決まっている部分が強調されるが、女性の化粧と同様かそれ以上に、努力によってなんとかなる部分が大きい側面だろう。つまり、女性の前に〇〇大学を卒業し、〇〇社に努め、収入〇〇円の男として登場するには、時間が離れてはいるが、過去の時間(努力)とお金がかかっているのである。男女の違いは、タイム・スケールに過ぎない。

そう考えれば、デートで一方的に女性だけが評価の対象にされていて、それに対して女性だけがコストを払っているというのは間違いということになる。正しくは、女性は割と短いスパンで時間とお金を容姿に投資し、男性は長いスパンで学業と職業と収入に投資している、という違いがあるだけだ。それなら、なぜ男が奢らなければいけないのだろうか?


評価としての収入?

ただ、私見だが、この議論は女性が回りくどい言い訳をしているから議論がややこしくなっているだけだとしか思えない。単純に「私(レベルの美貌の女)と付き合いたければ、金を貢げ」と言えば良いだけだと思う。実際、女性の主張はその程度のものだろう。

一般的に、女性の男性に対する評価の大きな部分に収入があると述べた。ただ、厳密にはその収入の内、どれだけが自分に分け与えられるかが女性にとっては重要だろう。収入が多くても、金遣いが荒く女性とのデート代も出せない男は評価されない。

男女関係という人間関係になるからややこしく見えるだけで、ここはマッチングという市場だと思えばなんでもない。女は容姿(と将来の肉体へのアクセス権)を提供する。男はそれに対価を払う。それだけの話である。実際、付き合ってしまったら、多くの場合、何かにつけ男の方が多く払わされるようになるし、結婚でもしたものなら益々そうなってしまう。

大枠としてはこれが現実で、議論になっているのが恋人になるかどうかを決めるデートだからややこしく見えるだけだ。


女性側の意見に整合性はあるのか?

最初に述べたように、マッチング・プロセスで男女の費用負担がどうあるべきなのかは、ケース・バイ・ケースとしか言いようがない。おそらく、奢った方が男は女ウケが良いだろう。しかし、デートしてみて魅力がないと思った女に奢りたくない、というのも真理だろう。だから、「なんでデートで奢らないのか」と憤る女に対して、「ハズレに金は払いたくない」という男の意見も正直なものである。

逆に言えば「そこは男女平等だろう」と言っている男でも、凄く可愛くて競争が激しい女の子だったら奢る、というのもありえる話だ。この点について厳格に男女平等を主張する男性というのは、ネットの論争でしか見たことがない。若くて可愛い女の子には、男は奢るものだ。

そして、一般論として「男が奢るべき」と言っている女が、本当にそれを信じているとも思えない。そう言う女が主張しているのは、「私は奢られるべき」ということに過ぎず、「一般的に女性が奢られるべき」と本心で思っているとはとても信じられない。

それでは、そういう主張をする女の前に、彼女が理想とする男を用意してみよう。彼は収入が多く、その他の条件も当然満たしていて、付き合う前のデートでも奢ってくれたし、もちろん付き合ってからも奢ってくれる上にあれこれプレゼントもしてくれる。

しかし、当然ながらその彼が「他の女」にも奢っていたらどうだろうか? 普通の女性は、それは止めてくれ、と言うだろう。

それは浮気だから別の問題だと主張されるかもしれない。しかし、男女の友情と恋愛はそんなに明確に境界があるものだろうか? 奢るべき派の議論を用いれば、友人関係でも女性が身だしなみにより多くのお金を使うのなら、男性がデートを奢る、少なくとも多く払うことになる。もちろん、この手の議論の類似のお題として「デートでサイゼリアはありか、なしか」というやつがあって、当然、奢る男性はサイゼリアには行かない。その女性に相応しい、それなりのレストランで奢るのである。そうすれば、友人だったはずの女性が彼氏に惚れてしまう、ということも十分ありえる。それを彼女は容認するのだろうか?

彼女がいるのに隠れてデートするのはもちろん、友人・知人であっても彼女がいるなら奢るべきではない、と言うこともできる。というか、彼女がいるのに他の女と1対1で飲み食いに行くのが許せないと言われるかもしれない。ただ、流石にここまで来たら受け入れがたいと思う男は少なくないだろう。一般論として社会人として「付き合い」が出来ないのはダメージが大きいし、学生でもサークルやらバイト先の付き合いで男女が飲み食いに行くのは普通にあることだろう。そして、そういう場で男が奢ったり、多く払ったりするのもまた良くあることだ。厳密にいえば、マッチング・プロセスでだけ男が奢るべきという議論も不可能ではないが、やはり前提として女性の方がコストがかかることを根拠にしている以上、それ以外の場で男性が奢ることを咎めることも、やはり難しいのではないかと思う。


まとめ

最初に述べたように、このお題に関して自分は特に意見はない。というか、どうでも良い。ただ、一般論として女性は奢られるべきと主張している女は嘘つきだし、それに対して厳格な男女平等を主張する男も嘘つきだと思う。

結局の所、女は可愛ければ奢ってもらえるし、そうでなければ奢ってもらえない。とにかく一律に男は女に奢れ、と主張するから話がややこしくなる。男が収入で女に評価されるように、女は男に容姿(と年齢)で評価される。そもそも女がデートにコストがかかるのは、男が容姿で女を評価するためで、その現実を受け入れた上で、コストに応じて費用を負担しろという供給サイドの主張は市場原理に反する。どんなにコストをかけても製品=容姿の質が低ければ、低い価格=奢ってもらえないという評価がつくに決まっている。男だって女から評価の対象にあう訳で、どんなに奢っても収入などの魅力が低ければ付き合ってもらえないという結果が待っている。評価のポイントが異なるだけで、男も女もお互いに評価される事には変わりがない。

こうやって議論を整理してみたが、やっぱりこの手の議論はどう考えても下らない。バカがバカな話をするのは理の当然だが、やっぱりバカバカしい話である。踊る阿呆に見る阿呆という言葉もある。桑原桑原。

まあ、地球の裏側では21世紀も20年過ぎて露骨な侵略戦争に抵抗して戦っている人達もいる。それに比べて、何とも平和な話ではないか。バカがバカとして生きていけるのは、まさにこれ地上の極楽というもの。ありがたや、ありがたや。

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