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永い言い訳

やたら海を見るなあと思った。
そう思えば私は今高知の海沿いを走る電車に乗っていたんだった。

自分のいる場所もわからないまま私は揺られて生きていると、迫り来る波のような苦しさに襲われた。


最近の私の言葉は投げやりだった。
人と向き合う自信がなくて、努力を怠って、怠惰を正当化して、自分で自分も大切にできないまま夏を消費していた。
理想から逃げていた。
人から逃げていた。
私という人生の舞台から逃げていた。

そんな夏、24時間テレビの放送される時期に私は高知にいた。合宿免許を取りに四万十自動車学校へ入校した。
夜行バスで到着した中村駅からバスで15分、この学校で一番最初に感じたのは、寝ぼけた目に映った朝顔が綺麗だということ。

そんな朝から1週間経った今朝、祖母が亡くなった。

まだ、母を亡くした母の声を聞けていない。

母が苦しまずに亡くなることを望んでいると告げた母に、おやすみと告げた11時間後。父から祖母の命が絶たれたことを知らせるラインが送られてきた。
仮免前の修了試験の朝。8:30に集合するために、7:10に起床することができて達成感で溢れていた朝だった。
大衆向けのSNSを通して知らされた訃報はまるで常態的でない生活をする私を現実に引き戻した。
何かをしていないと泣きそうになる1日がそこから始まる。

でもその時想像したよりも実にあっさりと、その日のうちに高知から離れることが決まった。

16:45にほんとはちゃんと伝えたかった「ありがとうございました」を小声で呟いて学校を去った。
中村駅の待合室は木の香りのする綺麗な空間だった。

そこで私は「永い言い訳」をAmazon Primeで見始めた。

主人公の妻は映画が始まって早々に死んだ。
これから私も乗る「高速バス」の事故で死んで、主人公はその時、不倫をしていた。
それでもちろん主人公は後悔をする。
なんだかそんな物語だった。

これを見た2時間の中には「死」が散りばめられていた。

そして「死」の周りにいる私たちは、苦しむという事実も突きつけてきた。

人はいずれ死ぬけれど、死んだ人の生きたかった未来を私たちが生きているんだという、何回も何回もこの世界で消費されてきたこの言葉が、結局この映画の感想だ。

なんだかもっと、思ったことがあって。それを私の命の燃料にしようと思ってこれを書き始めたはずなのに、ちょっと、今日はやっぱり、ダメみたいだ。

ただ、もうそろそろ逃げ続けるのをやめようと思う。

死んだ今日の向こう側にある明日のために。

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